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| <由緒>(平成祭) 1千数百年前、神武天皇御東征の先駆として活躍された賀茂県主族が、山城国久我より当時安房国渚南といわれていたこの地に移住してきて、村人を支配していた。元明天皇和銅5年(西暦712)8月、村中央の聖地に社殿を創建し、一族の守護・賀茂別雷神の御分霊を祭祀したのが本社の起りである。また、この時より地名を賀茂と改めたといわれる。社殿 賀茂神社本殿(安土桃山時代建立、昭和42年3月7日、県指定文化財) 本殿(内殿)は、天正年間勝浦の城主正木大膳の寄進による建物で、一間社流造り4.5坪、柿葺・円柱、正面本蟇股・側面板蟇股二段出組拳鼻を重ね、御扉金箔・飾金具金張切目縁高欄を配した朱塗の中世期の貴重な建物である。向拝は正徳2年(西暦1712)、改装されたもので、此の種の建造物最古のものである。昭和46年、解体修理が行われ建設時の姿に復元された。祭 賀茂八朔祭(8月1日前日祭、2日大祭)元明天皇和銅五年、社殿創建八朔吉祥の日を祝い日として五穀豊穣を祈念し、例祭の日と定め、笠踊・神楽を奏して祭儀を執り行っていたが、偶々領主里見の重臣・正木大膳の御社殿寄進に伴い、天正5年(西暦1577)、少年による倭の舞に改め、更に江戸時代初期、少女による八乙女の舞を合わせて奉納し現在に及ぶ。これらを総称して賀茂の八朔祭という。賀茂の三番叟(倭の舞、昭和37年5月1日、県指定文化財、昭和46年8月5日付文化庁記録選択)この舞に使用される翁と黒式面は、古色蒼然たる物であり、面の大きさも少年向きで、それを納めている箱も同時代の物と思われる。この三番叟は、江戸時代より伝承されてきたものと言われ、12歳前後の少年が翁・千歳・三番叟をつとめ、囃子方も笛を除いてはすべて少年が担当する。歌詞は大正6年(西暦1917)8月10日、高橋倉吉氏が考証人となって書き定められた。賀茂の花踊(昭和38年5月4日、県指定文化財、昭和46年8月5日付、文化庁記録選択)この花踊は、歌われる歌その踊などからして明らかに古歌舞伎踊の流れを汲むもので、最も盛んな頃の古歌舞伎踊の振りを少女向きにやさしく仕組みかえたところに特色がある。囃子は、太鼓とツケと歌・三味線はその口拍子が歌の中にまぎれてはいるが、用いていない。踊の名も別にないが、持ち物によって花と扇・手篭・手拭踊・奴踊の5段に分けられており、正面を向き一列に並び、前後に行き来して踊る。最後に輪にまわりこの時祝福の「終詞」がうたわれる。賀茂神社大火祭(昭和50年11月1日、町指定文化財)毎年12月大晦の夜行われる。3メ~トル余りの高さに生木を積みあげ深夜に点火して歳神様のお降りを仰ぎ、神域はむろん部落を浄め、悪霊を払い、心木の燃えて倒れる方向を吉方とする。各家はその年の火種として枝木にうつし帰り、灰は家の周囲に撒いて病魔を追払うまじないとする。神社では、参拝者に大豆の強飯を与え無事息災を祈る。
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