| |
| |
| |
| |
| |
| |
| <由緒>(平成祭) 創立年代は不詳であるが、その源は鎌倉時代の初期、深田家初代信輝らが浜中の里(車尾の旧俗称)を開拓しはじめた頃のようである。人々はほぼ村の中央に天神を奉斉し、人々の常の心のよりどころとして車尾、海池(皆生)、上福原、中島を逐次開拓していったのであろう。現在、神社には日野川の大氾濫天文19年8月、元禄15年七月から流出をまぬがれた現存する文録四年の古棟札類百枚余りをはじめとして、米子市指定の有形文化財(皆生村出身の僧・塔然の自筆絵馬)などの絵画、絵馬類も多く所蔵しているが、これらの古棟札絵画、絵馬、古文書類から察知されるのは、車尾、海池(皆生)、上福原、中島の4か村の総鎮守、氏神として、常に人々から厚く崇敬されているということである。今日までの700年近い歴史の中には、この車尾の地にゆかり深いあの後醍醐天皇、瓊子内親王親子の悲哀に満ちた御歌あるいは伝説等もある。(後醍醐天皇深田家に御駐泊された時に、当神社に参拝、武運長久を祈願、鞍を敷かれしばし休息されたことから鞍敷神社と呼称された云々の記録が見える)また正慶年中には村内に悪疫が流行するも祈念退散、戦国時代は武家武士のも尊崇されている。永正17年戸上山城主久代氏神田1町寄進、江戸時代に入ると、松平氏をはじめ因伯大守公の武運長久祈願所として盛んな崇敬を集めている。また元禄15年の日野川氾濫により社殿が流出すると、宝永7年には深田家代31代益棟が再建、しかし明和元年再び日野川の氾濫により流出してしまった。人々は度重なる日野川の氾濫にもめげず明和3年3月に、今の社地に立派に再建遷宮したのである。旧社地はいまでも子字が残存しているように、現社地より東に100米辺りと推測されるこの時に、日野川の洪水氾濫の崇りを恐れ、かつ祈雨、止雨、農耕開拓守護神として霊験あらたかな京都鞍馬山の貴布禰(貴船)大神の御分霊を奉齊し、天神、鞍敷社と合祀、貴布禰神社と改称されたのである。境内の石灯篭、狛犬などは天明・明和・文化・文政・天保などの幕末期に奉納寄進されたものがおおく、当時の盛んな信仰の様子が偲ばれる。現在の社殿は明治31年3月に車尾・皆生・上福原・中島の4ヵ村の氏子はもちろん、近隣の醸造家をはじめとする崇敬者の浄財により造営、建立されたものである。
|
|