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| <由緒>(平成祭) 晃石神社は往古山嶽信仰によって生成され、鏡石(神石)があって日夜皓々と輝いたと謂われ、故に綾都比(アヤツヒ)の神と称された。古歌に「あやつひの てるひのやまの おおかみに やまだぞひとの つかへたまへぞ」と詠まれ、山田郷民の敬崇するところとなった。又仏法が盛行され、天平元年(729)、行基が綾比山明光寺を開基してこれを護らせた。天長2年(825)8月朔日、左大臣藤原冬嗣公より社額を賜り、元慶3年(879)3月9日、従五位下に叙せられた。承平天慶の乱の折、藤原秀郷必勝を祈願し、その霊顕を謝して天慶10年(947)、社祠を再建寄進し己の大祖の天児屋根命に祀り変えた。その後治承四年(1180)、兵燹により焼失したが弘安年中(1278~1287)、佐野安房守が再建した。付近連帯の山峰を都賀山と呼び都賀、安蘇八郷の総鎮守として崇敬された。徳川の世となってからこの山は晃石山と呼ばれ神社も晃石大権現と称された。文化6年(1809)2月8日、野火(山火事)により焼失、早速仮殿を建てたが仲々再建の運びにならず16年間経過した。時の神職関塚相模、世話人白石藤蔵、川田彦左ヱ門、関小左ヱ門、白石要吉等をはじめ産土の神として氏子達の信仰心の結集により文政8年(1825)、再建に向け勧進を始め寄付金の進行に合せて敷地拡張の基礎工事(岩石を崩しての整地)から逐次建築を進め、募金額1000余両、漸く天保13年(1842)、完成した。 |
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