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| 莫越山神社[沓見](なこしやまじんじゃ[くつみ]) |
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| <由緒>(平成祭) 神社の創立は、社記によれば神武天皇元年、天富命(安房神社の御祭神は天太玉命、天富命ですが、天富命が忌部の祖神である天太玉命を現在の地に奉斎したのです。)が忌部の諸氏を率いて、安房の国に来臨し、東方の開拓をされたときに、随神として来られた、天小民命が祖神である忌部の神、手置帆負命、彦狭知命を当社莫越山におまつりして、祖先崇敬の範を示したとしるされております。手置帆負命、彦狭知命の二柱は、皇国工匠の祖神で氏上天太玉命に従って其職を奉じ、宮殿家屋器具機械の類をつくりはじめた神です。その神業はうけつがれて今日に至り、上は宮殿から下は人家に至まで、その建築の功績は風雨寒暑をしのぎ、器具機械の効能は種々多彩につかわれ、我々人類に幸をもたらしております。この二神の御神徳によって、私どもは日々幸福な生活ができるといえましょう。従って、その業を職とする工匠は勿論のこと、一般に崇敬され、地鎮祭、起工祭、釿始、柱立祭、上棟祭、葺合祭の主神として奉斎し、小屋安大神、また家宅守護祖神として崇敬されて居ります。相殿に彦火々出見尊、豊玉姫命、・・草葺不合命を奉斎してあります。この諸神は日本敷物の祖神で畳業家の崇敬あつく、又安産育児の道を守り、海幸の御神徳、海猟海上安全の事も守られ、その道に於いて信仰されて居ります。延喜の制に於ては式内小社に列せられ、大化の制に於ては国司の祭祀にあずかって居ります。治承年間に源頼朝の祈願の事があり、神田二十町を寄付されて居ります。里見氏の時代になり三石の寄進あり、徳川氏の時代に於ても3石の寄進がありました。代々領主の祈願所でありました。明治二十五年十二月、小松大将宮彰仁親王殿下より社号額字の御真筆を賜わりました。現在拝殿正面の額字が奉掲されたものです。 講社の起源沿革 祖神講の起源年号はあきらかではありませんが、明和八年、本社の修築の際、その修築費を江戸講中により募集したとありますので、明和以前より存立していたと思われます。明治8年11月4日、祖神教会講社を浅草西鳥越町二番地に建設し、後にこの教会所は本社に移され、明治39年、本所大工職業組合に管理崇敬共に依頼されました。当時の組合長は白鳥豊次郎氏でありました。明治十五年、本社の本殿、幣殿、拝殿を講員の寄付金をもって改築されて居ります。昭和になり東京横浜の各区の職工組合により、講社が結成され年々本社に参拝されて居りました。
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