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| 拝殿(2015/05/14) |
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| 大木兼能公(おおきかねよしこう) 韓人金官公(かんじんきんかんこう)
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| <由緒>(由緒版) 加藤清正公〔永禄五年(一五六二)六月二十四日~慶長十六年(一六一一)六月二十四日〕は、尾張国愛知郷中村(現名古屋市中村区)の出身で、戦国時代の智仁勇の三徳を兼備された模範的武将として、また、熊本に於ては、日本三名城の一つである熊本城の築城と、それにははじまるところの富国安民の国づくり政策を推し進められた方であります。 それは、全県下に亘る土木・治水工事をはじめ、干拓・開墾・植林・交通の便の為の街道づくり、焼物等幾多の国の発展の礎となる産業の奨励保護等民草の為の治世をなされ、また、学問の奨励・文化の開拓等と一つ一つ列挙すれば限りない程の偉業を残された領主であられます。 それに武将としての清正公は、単なる勇しいばかりの武士でなくして、常に大義名分を重んじられると共に、上には忠と義を以って、下には慈悲と情を以ってあたられた方であります。この様に二七歳で肥後国に入国され五〇歳で逝去なされた、清正公の五十年の人生は、実に至誠にして高潔なる人格者であり、いつの時代に於ても尊崇敬慕されるにふさわしい理想的日本人であられ、熊本県民にとっては、熊本発展の礎となる有形無形の役割を果された大恩人であられます。
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