島津 義久

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薩摩国の戦国大名で家督を譲りうけると薩摩・大隅・日向の三州を統一後、大友との耳川の戦い、龍造寺との沖田畷の戦いを得て九州の大半を制圧したニャン。さらに大友宗麟をおいつめていくが、秀吉の九州征伐により降伏する事になり、豊臣政権下で薩摩・大隅の安堵されたニャン。関ヶ原の戦いでは弟の義弘が西軍に加担するが、義弘は動かなかったおかげで西軍が負けても本領安堵となったニャン。

読み:しまづ よしひさ
別名:又三郎、三郎左衛門尉
改名:虎寿丸(幼名)→忠良→義辰→義久、龍伯(法号)
性別:男性
生年:1533年3月4日
没年:1611年3月5日
年齢:78
死因:病死
戒名:妙谷寺殿貫明存忠庵主
神号:大国豊知主命
辞世:世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空
配偶者:花舜夫人(入来院重聡の娘)
兄弟:義弘、歳久、家久
父:島津貴久
母:雪窓夫人(入来院重聡の娘)
主君:足利義昭→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康
タイプ:大名・武士

名前タイプ住所
 島津家墓地お墓鹿児島県鹿児島市池之上町48

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