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| 大己貴命(おおなむちのみこと) 事代主命(ことしろぬしのみこと) 義平御霊代(よしひらみたましろ)
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| <由緒>(平成祭) 当神社縁記によりますと、応保2年(1162)9月源義平の家臣三浦萬三郎義久がその家従本田新助、桜山右京と共に主君義平の甲冑を持来り、この村の郷士高橋宗兵衛定徳の氏神、旧社大巳貴神社に合祀し、甲大明神と呼称して崇敬厚かったと伝えています 源義平は源氏の棟梁源義朝の嫡男で、幼時より武勇絶倫奨器をそなえた若者でした。15歳のとき叔父源義賢を誅戮しましたので悪源太といわれました。平治の乱(1159)がおこり源義朝は平清盛に敗れ、東国に逃げようとしましたが翌永暦元年正月3日尾張で旧臣長田忠致に殺され、三男の頼朝も捕らえられました。義平は越前国まで募兵に行きましたが、父の死を聞き京都に引き返しました。そして六波羅におる平清盛の命をねらっていましたが、捕らえられて京の六条河原で斬られ首梟にされました。時は永暦元年正月25日、義平20歳の短い生涯でした。三浦義久はこれを聞き都に出て、主君の首級を盗み取り敵地に祭祀しようとしましたが、追咎がひどく平家の眼を逃れて奥州に下り、この地に御霊代を合祀致しました。甲大明神は将軍家代替りのたびに行われていた幕府諸国巡見使の参詣奉幣所になっていました。明治2年4月23日神祇官の許可を得て現在の楯和気神社と改称いたしました。
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