湯野神社

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タイプ
神社
名前
湯野神社(ゆのじんじゃ)
別名
大森神社(おおもりじんじゃ)
所在地(住所)
島根県仁多郡奥出雲町亀嵩1284
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公式サイト
https://yuno-jinja.jp/
主祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
邇邇藝命(ににぎのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
三保津比賣命(みほつひめのみこと)
御由緒
御縁起
御神徳
歴史等
<由緒>(平成祭)
創立年代は詳らかでないが、六国史及び出雲風土記所載の神社にして、亀嵩温泉の医薬の主護神として創建された神社である。社名は「中湯野、西湯野、湯野の小川」など出雲風土記関係や雲陽誌・出雲神社巡拝記・出雲国神社考にあるがごとく、亀嵩温泉に関する地名から「湯野神社」となったものである。古文書、古記録、棟札によれば、温沼神・湯野社・大森大明神・湯野社大森大明神・大森社・大森神社・亀嵩大社・中湯野村社・亀嵩神社とあり、又亀嵩の各集落にあった神社(村社)の総氏神であったことは、棟札に総本願のほかに各部落の神社の氏子中より村本願がで、遷宮費もその全集落が負担していることが明記されており、又天保13年の祭礼神事当人組帳や第二の鳥居の柱と額に「亀嵩大社」と記されていることからも、総氏神であったことを知ることができる。宸旨をいただく祈願社であったことは、三代実録に清和天皇の貞観10年秋9月21日に従五位下、同13年冬11月10日に従五位上を授けられていることで知ることができる。社地は往古字「宮地」と称するところに出湯があって、その地に四間四方の壮大な宮殿があったのを、北条時頼の特命を以てより以上の社殿を改建しようとして、約百米西の現社地に奉遷したのであるが、建立を果たさずしてついに仮宮が本社となって現在にいたっている。当社には正神主・御權神主・下職・巫職が奉務し、又社の南西に接して常連寺があってその僧とともに祭祀をつかさどり、34石4斗2升の社領があった。百六代正親町天皇の頃と思われるが、正神主の千原某が神社領地を専らにしようとして権神主と常連寺を焚殺す。そのため天正の頃に現社家の祖先恩田大和(職名祝宇江衛門)が神主となって、新らしく神社の寺となった青龍寺の僧とともに祭祀にあたった。巫職は世襲にして八乙女舞を奉納していたことは雲陽誌に記載されているが、その家系は中絶した。文久辛酉の年になって、正神主恩田生男と青龍寺の僧寛開とが祭祀を争ってついに青龍寺の僧は祭祀にあずからないこととなる。その後、正神主は家系が「新宮」と改姓して祭祀にあたっている。下職は明治4年郷社に列せられるまで勤務し、仁多町下阿井の加納六大夫がその家系である。天正8年己卯三沢の城主三沢少輔八郎為虎にいたるまで、三沢氏が大檀那となって修めて、当時の棟札には氏子や職人の氏名が全くない。神主も三沢に仕えていたことは、天正2年12月8日に三沢左京為清より当時の神主恩田大和正が猪子狩の手柄により土地を授けられていることからも知ることができる。三沢氏以前のことは判明しないが、三沢氏以後は氏子の修むるところとなっている。亨和元年辛酉の日に亀嵩町が全焼し、その火がたまたま御修造中の工匠小屋に移り、本殿をはじめ全社殿を消失するも玉殿は無事に奉遷した。慶応3年丁卯12月晦日に正神主の家に火災があり、多数の文書や宝物が焼失した。明治4年7月4日太政官達「郷社定制」により同年12月12日付を以って郷社に列せらる。明治39年勅令第96号に依り、明治41年1月5日島根県告示第361号を以って「神饌幣帛を供進することを得べき神社」と指定せらる。又昭和61年7月1日島根県神社庁特別神社に指定される。明治41年7月20日村内字上分に鎮座春田神社・字梅木原鎮座鹿島神社・翌21日字西湯野鎮座星神社・字久比須鎮座久比須神社の各村社を、許可をえて合祀した。境内神社「玉作神社」は古来玉作社・玉造社・玉上大明神と称し、出雲風土記所載の社である。往古は玉峰山上に大杉一株を神木とし、100間4方の社地を有して、同山より産出した水晶を以って玉を作った人々の祈願社であった。元文元年丙辰3月、三沢三郎左衛門為清が、隣接の鬱峰山に築城のため字原谷に遷座した。その後明治42年10月14日、許可を得て同年同月22日に境内神社として遷座した。

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