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| 大分君稚臣(おおきたのきみわかみ) 豊門別命(とよとわけのみこと)
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| <由緒>(平成祭) 往昔、上野六坊村(現在の上野丘町)に鎮座していたと伝えられているが創建年代は不明。六坊の名称の起源は、当社の社僧6人の住居があったところから此の名が起ったといわれる。平安初期五十六代清和天皇の貞観11年3月(869)、下郡の滝尾山神ヶ迫に六坊より遷宮、特に本殿は5間四面の広大なる新社殿であったという。鎌倉初期八十二代後鳥羽天皇の建久7年(1196)、二豊の守護職として府内城主となった大友能直公の崇敬殊に厚く多くの土地を寄進した。103代後土御門天皇の寛正6年(1465)、大友親繁公社殿を改築された。このように代々の大友家の崇敬と保護によりしばしば修築がなされた。一〇六代正親町天皇の元亀3年2月11日(1572)、大友家内紛のまきぞえにあって戦火にかかり社殿残らず焼失し、かろうじて御神体は神主達によって難をまぬがれ、上席神主国家大膳居宅傍の羽田字角屋敷、栗の木のもとに仮殿急造営し奉安した。この戦火により当社の重要古文書、宝物悉く焼失したのは痛恨のきわみである。天正2年8月(1574)、大友義鑑(後の宗麟)角屋敷の社殿を再建された。後水尾天皇寛永3年(1626)、松平忠直公(一伯)萩原より津守に移館されてより津守熊野神社をば子息松千代君の産土神と定められるに及び当大分社の氏子中、鴛野、曲、津守、片島(辻堂以西)を熊野神社氏子として引上げられた。大友氏滅亡後も代々の府内藩主は当社を崇敬し祭典の折は多大の金品を奉納された。百十一代後西天皇の明暦3年3月(1657)、元の御神幸所(現在の鎮座地)を永遠の宮地と定め角屋敷より遷宮。一二〇代、仁孝天皇の天保11年(1840)、現在の本殿を再造営。翌、天保12年(1841)、拝殿を造営。明治26年4月(1893)、現在の拝殿を改築。大正14年3月26日、郷社となる。
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