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| <由緒>(平成祭) ようこそ恒久神社に初詣下さいまして有難うございます。皆様にはきっと御神徳に依って今年はよい運が添うことでしょう。恒久神社も創立以来九百年を迎えることになりなした。さて、恒久神社はどんな神社でしょうか。どんな御神徳があるのでしょうか。御祭神は神吾田葦津姫命、別の名を、木花咲耶姫命と申し上げます。木花咲耶姫命は天孫ニニギの尊が日向の児湯の地、妻(現西都市)カササにおいておみそめになり妻とされました。第一子はホデリの命(海幸の命 鵜戸神宮に祀る)。第二子はホスセリの命(郷土江南の開拓者日下部豪族の祖先)。第三子はホホリの命別名彦火々出見命(山幸の命 青島神社に祀る)。木花咲耶姫命都万の宮(西都市妻 都万神社)に祀られています。都万の宮は日向四社(都万・都農一宮・江田・霧島神社)と言って延喜年間(西暦九百五)既に神名帳にその社名が載っており我が国で最も古い神社に属します。妻地方(現西都市)は大和・奈良・平安時代にかけて日向の国随一の文化の地でありました。奈良時代天平十三年に聖武天皇は国毎に国分寺建立の詔を出されましたが、日向の国では妻に国分寺が建立されたことや豪族の墳墓、日本有数の西都原古墳群があり九州随一の大古墳オサホ塚メサホ塚はニニギの命木花咲耶姫の命の墳墓であると伝えられています。当時妻地方は日下部と言う豪族が支配していました。木花咲耶姫命の第二子ホスセリの命の子孫です。従って、木花咲耶姫を氏神と仰ぎ都万の宮に祭りその御神徳を戴き当時豊後(大分)の宇佐八幡宮とその勢力を競うほどでした。時に平安時代の中期以降日下部の豪族は江南の地(赤江川現大淀川以南)に進出し荒地を開拓し、ここに広大な穀物の宝庫江南国富の荘(園)が誕生しました。平安末期寛治四年(千九十)今を去る九百年前、日下部豪族は氏神である都万の宮を国富の荘園の鎮守の宮として勧請(分霊し祀ること)したのであります。称して江南一宮大明神恒久神社であります。(恒久神社と改称されたのは明治五)今だに恒久神社を一宮様、又は、大明神様と尊称するのは一宮大明神に起因するものです。神社由緒によると当時社領八町八反御幣田一町江北・江南の住民は貴賎を問はず皆氏子として崇敬浅からぬものがあり、神威益々盛んなりとあります。後世江戸時代には飫肥藩主伊東公歴代の御敬神はことのほか厚く禄高十数石をもって遇されているのであります。さて、話は前後しますが恒久神社の御神徳についてお話を進めます。一、江南地方の守護神総鎮守の神であること。一宮大明神江南の地勧請のいきさつは一宮大明神縁起によりますと、当時江南地方は豪雨長雨により住民は飢餓と悪疫に苦しんでいた時、都万の宮の御神託即ち「吾を江南の地に祭るべし、然らば吾江南の住民を守らん」との御神託によるものであるとされています。だから私達江南地方に住むものにとっては守護神であると言えます。二、産の神であり安産子授けの神であること。私達は産んでくださいと頼んで生まれたわけではありません。親もまた産むという意志に基づくものでもありません。一切はうぶすの神の御恵によるものであり、だから、子宝に恵まれたとか授かったというのです。産後の初宮詣或は七五三詣は産の神に対する感謝(お礼)とよりよい成長を祈願する親心に外ありません。氏子の皆さん初宮、七五三詣はうぶすの神恒久神社にお参り下さることをお勧めする次第であります。安産授子の守護神として木花咲耶姫を祀るのは「姫御妊給えるを天神(ニニギの尊のこと)怪しみ給いければ姫いたく恥給いて無戸室(出口のない産殿)を造り吾妊める子他神の胤ならば必ず幸あらじ天神の御子ならば全からむ」と火を放ち誓いのまにまに御子三子(前述)を産み給うことを以て安産の神と崇め奉る所以なりとあります。三貴子の名にそれぞれホとあるのはホ即ち火のことであります。三、五穀豊穣農事万般の神であること。木花咲耶姫の命の木の花と言えば私達はすぐ桜の花を連想しますが、桜ではなくこぶしの花(モクレン科の落葉高木)のことです。昔は暦がありませんでした、従って自然の変化により、その季を知ったのです。豊葦原の水穂の国、即ち日本民族は稲作民族でありました。そして、稲の種蒔きはこぶしの花の咲く時にあわせました。だから、こぶしの花と稲作は密接な関係にありました。こぶしの花は神聖な花として神格化され、ここに木花咲耶姫と言う神の出現を見たのであります。都万神社の由緒にも、天孫ニニギの尊が高天原から持ち降りられた稲種を咲耶姫自らがお作りになり出来た新穀で神食御酒をお造りになり広く一般に米造りを御教えになったとあります。神社幟旗の紋章は、私がこぶしの花を図案化したものです。
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