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| <由緒>(平成祭) 当神社の御創建は第53代淳和天皇の御代、今より約千二百年前、勅宣があり「新羅降伏により一国に一社八幡宮を創建する」との詔により天長元年(824)当地に鎮座されました。特に日向、大隅、薩摩は外国に隣接しているため、一郡に一社を勧請し「中野八幡宮」となったものであります。その後都於郡城五代目城主伊東大和守祐堯公は文明17年(1485)島津家と争奪中の飫肥城に出馬の際、清武城にて逝去されたので当神社に霊を配祀しました。以来、飫肥藩の尊崇厚く社殿祭具に藩主家紋の使用を許し又、社領として年十六石、神職家に年二十三石を給わせられ、例祭をはじめ春・秋の大祭に清武の地頭をして代拝せしめ国家安康を祈念しました。「中野八幡宮」の称号は明治維新の際「中野神社」と改称、村社に列せられ「神饌幣帛料指定神社」となりました。社殿は、創建以来数度の改修があり近年では明治10年の西南の役で戦火のため焼失、翌11年復興し、現在の社殿は、昭和15年12月起工同17年4月復元されております。当神社は母子神として信仰が深く、安産、育児、殖産、諸芸上達の御神護が篤いといわれております。なお、社殿前の鳥居(石造)には天明6年8月奉納の文字が刻まれています。西南の役で中野に西郷軍が陣地を作ったため清武町は戦場になりました。その時の弾が境内の大樹にいまでも残っています。
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