| |
| |
| |
| |
| |
| |
| <由緒>(平成祭) 当社の祭神は、応神天皇、(おうじんてんのう) 神功皇后、(じんぐうこうごう) 田心姫尊、(たごころひめのみこと)湍津姫尊、(たぎつひめのみこと) 市杵島姫尊、(いちきしまひめのみこと) をおまつりしてあります。ご勧請(かんじょう) は欽明天皇のお守りとも、また天智天皇のお守りとも伝えられ、その年暦を明らかにすることは困難ですが、社伝によりますと、今を去る千数百年の遥か昔、宇佐八幡より大浦御所ヶ崎に迎え、高串の峰を越えて、中間村麓(なかいだむらふもと) という現在の地に鎮座せられたということです。元明天皇和銅5年(712)8月15日に初めて祭祀が行われ、このとき国司より社領寄進がありました。次いで源義経公が伊予守補任のとき、社殿の造営をされ、家臣鈴木三郎重家に命じて、庭に伊吹を2本植えさせました。これが社頭の樹齢およそ8百年いわれる、国指定天然記念物「いぶき」です。なお社宝として、願主は不明ですが、嘉元3年(1305)の銘のある「舞楽面」(ぶがくめん)があります。この面は舞楽面のうち、散手面(さんじゅめん)に属するものです。現存するものは厳島神社をはじめわずかで、作風優れ貴重なもので、県指定有形文化財となっております。天正15年(1587)領主戸田勝隆公入部の節、当社に参詣せられ、宇和郡の鎮守として奉祀するよう命じておられます。文禄12年(1607)領主藤堂高虎公は社殿を再興され、その折「牛若丸と弁慶の五条橋」の図2面と、「松に鷹」の図1面を奉納されました。この絵馬は、彩色の板絵で、「当社中興の時奉寄進、藤堂和泉守、慶長12年丁未六月吉日、敬白」と墨書銘があり、県の有形文化財に指定されています。元和元年(1615)初代藩主伊達秀宗公は、入部間もなくご参詣になり、親しく社伝をお尋ねの後、伊達家武運長久の祈祷所とされました。元和3年(1617)には、山家清兵衛公頼公(やんべせいべいきくよりこう) に社殿の屋根葺きかえの奉行を命じ、同9年には鳥居を建立されております。さらに寛永2年(1625)には、国徳(くにのり)作の太刀と薙刀(なぎなた)を奉納されています。そのいずれの銘文も歴史的資料として評価高く、市指定有形文化財とたっております。このようにして、藩祖秀宗公の当社に対する崇敬の深さを、うかがい知ることが出来ますが、以後歴代藩主の厄除け、病気平癒から参勤の旅の平安の祈願、世子の加冠、その他の諸祝儀、領内の雨乞、蝗災退散等五穀の豊饒を祈願するための大神楽が、当社で度々執行されております。宝永元年(1704)には朝廷より正一位の神位を奉られる等、朝野の崇敬極めて篤く、宇和郡総鎮守として敬仰されました。元文3年(1738)には、6代神主渡部豊前守源清綱(応曹)が、「伊予神楽舞歌弁次第目録」を著しました。これは古来男神子(おんかんこ) 四国神楽伝えられたものを伊予神楽としてまとめた貴重な歴史的資料で、このため伊予神楽は国の重要無形民俗文化財として指定を受けました。社頭の注連柱(しめばしら) には、宍戸玄がい(部首心偏に豈)書の「仁慈普及、武勇無敵」の雄渾な文字がありますが、ご祭神が、仁慈の御心を以って普く民生を安んじ、武勇を以って国民を守り給う御神徳を敬仰して、古来氏子連は、年中行事を通して一身一家の祈願参拝や、祭礼神事には地域を挙げて参加協力し、祖先への感謝を捧げ、より豊かな郷土づくりに励んできました。現在当社は、宇和島市内の3分の1を占める地域に、60自治会、6千7百余戸の氏子世帯を数えております。奉仕の社家は、元亀3年(1571)松丸河後森城より、この地に神子朝日を初代とし、以来代々世襲して現在15代に至っております。初代朝日は、河後森城主渡辺式部少輔教忠の娘で、同城落城により鍵尾村へ落ち行き、のちこの地へ移り当社へ奉仕したと伝えられております。
|
|