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| <由緒>(平成祭) 社伝に奈良時代の天平年間大野東人の創建とも伝えますが、平安時代の康平年中、源頼義、義家前九年の役に際し当地に至り、里人に「此の地に椹の大木六本有り故に六椹の里と称し、祀れるは八幡大神也」と聞き、「それ陸奥の苦を抜くに通ず」として戦勝を祈願、争乱平定後の康平6年(1063)神恩報謝に社殿を造営、黒地金泥日章旗一旒を奉納したと伝えます。南北朝時代の延文元年(1356)斯波兼頼山形に入部するや累代の祈願所と定め社殿を造営し、その子孫最上義光は、慶長5年(1600)上杉軍との戦勝に愈々崇敬を篤くし社殿を修営、軍旗、社田等を寄進しました。最上改易後、寛永7年(1630)城主鳥居忠恒宮殿造営、これ今の本殿と伝え、八双金具には鳥居家紋の巻鶴が彫られています。江戸時代慶安元年(1648)以来、御朱印418石、代々山形城の鎮護として栄え、近郷一円から集う祭礼の盛んなることは多くの記録になっています。明治6年(1873)山形市最初の県社となり、依頼北の両所宮、南の当八幡宮と山形市氏子区域を二分する大社として崇敬を集め、現在氏子6000余世帯、30余町区に及び、昭和59年神社等級三級に昇格、昭和60年「宮」号承認、明治以前の社号「六椹八幡宮」に復旧し、社頭愈々隆昌、御神徳益々広大であります。
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