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| 大己貴命(おおなむちのみこと) 稲田姫命(いなだひめのみこと) 稲背脛命(いなせはぎのみこと)
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| <由緒>(平成祭) 御祭神 素盞嗚命、大己貴命、稲田姫命、稲背脛命。請鎮年月日 神社由緒書には「請鎮年月日 元亀 天正 文禄 慶長 元和を通じすべて54年の間の中にあること明白なりとす」とある。その根拠を大要次のように記してある。口語文に直して紹介する。「古いことであるので詳細に知ることは容易ではないが‥」と前おきして、「当社に伝わる記録及び神社棟札や神職あるいは古老の口伝によって推察すると、永禄6年(1563)戸田城で亡びた尼子氏の家臣、安田与惣衛門と、これより先に川中島の戦に敗れた武田氏の残党 井田久左衛門が共に浮浪してこの地にたどりつき、農民となって居を定め、この地を篠津が原と呼んだ。この地の開拓の祖先であり、当神社の棟札に載せられており、記録にあるので顕然と今日に伝わっている。当神社は万治2年10月11日(1659)に国幣社日御崎神社の御分霊を請鎮されたものである。しかし更に記録を見れば寛永17年4月16日(1640)社殿修復一度成就の事項があるので請鎮年月日は、それ以前であることになる。従って、前述の安田、井田両氏がこの地に来た永禄6年以降、寛永17年以前であるから、その間すなわち、元亀 天正 文禄 慶長 元和の54年間である。(以下略)」というものである。この54間の算出は、元亀元年(1570)から元和9年(1623)までを通算したものである。また、寛永17年4月16日社殿修復の記述については、現在確認していないが、前宮司(櫃田重男)の文書に「当社は万治2年社殿修復の棟札あり、古棟札2枚は虫喰年記等不明なり、内一枚の棟札に寛永17年4月16日の年号かすかに見ゆる有り。」とある。なお、出雲の日御碕神社は「碕」の字を用いるが、この由緒書や左記の棟札には「崎」の字を用いてあるので原典を尊重した。棟札 前述の由緒書にもあったように、当社は日御碕神社より御分霊を勧請したものである。従って古くは社号を「日御崎大明神」と称していた。日万治2年(1659)奉造営日御崎十羅刹女天長地久願円満皆令満足攸(本願の六名の中に井田久左衛門の氏名がある。)月延宝7年(1679)神奉造営日御崎十羅刹女天長地久願円満如意安全祈所(現在地に遷宮した時のもの)火元禄11年(1698)奉建立日御崎神社霊廟一宇成就神通守衛 水正徳5年(1715)奉造営和田御崎大明神霊廟一宇成就守衛地 木元文5年(1740)和田御崎大明神建立一宇成就守護所 金宝暦11年(1761)和田御崎大明神修復成就 土天明元年(1781)奉再建一宇成就攸 祭享和元年(1801)奉修覆和田御崎大明神一宇成就 祝文政4年(1821)右に同じ 自文政8年(1825)右に同じ 至天保10年(1839)右に同じ ㈹安政5年(1858)奉造立和田御崎大神宮一宇成就 呼元治元年(1864)和田御崎大神宮御供献上 ㈱明治7年(1874)奉修覆神楽殿1宇成就攸 資明治8年(1875)奉新建御廊下御舎成就攸 名〃(〃)奉上和田御崎神社御舎成就攸 ㈲明治31年(1898)和田御崎神社修覆1宇成就之攸 学大正5年(1916)奉修覆和田御崎神社1宇成就攸 財昭和15年右に同じ 社昭和26年 奉鎮祭(4柱の神名)和田御崎神社本殿幣殿修築成就攸 昭和43年右に同じ 以上21枚の棟札が現存する。月は現社地に遷宮した時のものであり、木土㈹に各々建立、再建、造立とあるので、単なる修復ではないと考えられる。現在の社殿がどの時代に建造されたか明らかではないが、天明6年(1786)の「御社帳」(門脇應義の書かれたもの)には「本殿3尺4方・拝殿無シ」と記してあり、本殿のみで、それも現在のものより小さいことがわかる。従って、現在の社殿が建造されたのは天明6年以降であるところから、棟札と照合すると㈹の安政5年の建造であろうと思われる。社の位置の変遷 「和田御崎大神宮縁起」には大要次のように書いてある。「古くは祇園神社の社地にあったが、御神慮にそぐわず、馬で社前を通行する人に事故があったり、航行する帆船が海難に遇うなどして氏子が神慮を恐れて現在の社地に遷宮した。延宝7年(1679)当村の安田磯右衛門所有地の寄進を受けて実現したものである。」和田御崎大神宮縁起 和田御崎大神宮往古は祇園神社の社地に御座あらせられ候処(祇園神社の社地只今の和田御崎大神宮の社地より未申に当り元社地と申す場所に御座候)右の社地御神慮に相叶い申さず候や。往来馬上にて御通行致し候えば間々凶事御座候ならびに磯近く渡海の帆船までも難儀つかまつり、御趣専ら世上風聞御座候につき氏子中神慮を恐み、去る延宝7年9月当村安田磯右衛門所有の山林の寄進を受け和田御崎大神宮だけ只今の社地に遷宮つかまつり、祇園神社とはその時より別社地に成り相候由、記録に御座候。猶また只今にても馬乗打致候ものあらば馬場先にて泊り候事折々御座候。(以下略)この縁起と伯耆志(第七項参照)から、元の社地が現在の神社から未申(南西)にあたる御崎の森であったことがわかる。つまり、森に祇園神社と和田御崎神社の両社が鎮座していたのを、前述の理由によって現在の社地に移転遷宮したものである。社地を寄進した安田磯右衛門については、昭和23年の境内地譲与関係書(国有地を神社所有地に譲与申請)に記録がある。古老安田友市の言 祖母そのの言い伝えに依れば、和田御崎神社の境内地は延宝7年9月元社地より現今の社地へ移転遷宮の際、祖先磯右衛門の所有地を寄進せし事を常に語りいたり。(以下略)昭和23年4月 安田友市印 明治4年4月1日生 78歳 祖母そのの略歴 文化13年3月15日生、明治26年旧6月8日78歳で死亡。(別紙に当時の村長 本池忠雄氏の証明書が添付してあり、安田友市は誠実な村民で、その言が真実である旨が書かれている。)(五)稲荷神社の勧請 和田御崎神社は古くから人々の厚い信仰をあつめていたようであるが、由緒書には「文化文政の頃より当社の霊験ことに顕著のものあり。以来庶民の尊敬の念を一層増大ならしめた。」とある。このような神社の隆盛と稲荷神社の創設が深く関係していることは「和田御崎神社へ三條西御殿より御代参由来記」(嘉永五年、著者 門脇加賀)に記されている。※三條西御殿より御代参由来記 去る九月八日、車尾出張所まで郡奉行岡嶋藤兵衛出浮、庄屋に申され候て、和田御崎大明神へ三條西御殿様より御社参なさせられ候よし、庄屋をもって御問い合せ、なおまた、先年御寄附御信仰の次第、書類等、残らず写をもって拝見つかまつりたしと由来候につき、御寄附の次第書き付け差し出し、その上、神主より庄屋聞取り、書き附けをもって郡奉行まで申候。左の通り。要するに郡奉行が、三條西御殿の御社参や御寄附の模様を、庄屋に書面をもって報告せよとの申し出があり、庄屋は神主より詳細を聞き取って、御寄附の書き附けに添えて差し出した。というものである。その内容が左のようにつづいている。先年、和田村に髭医師と申す者御座候ところ、一子も御座無くにつき、※汗入郡妻木村神主の次男を養子につかまつり候ところ、此の人和田御崎大明神へ厚く信仰いたされ、それより京都へ参り三條西御殿へ立寄り、ついには※諸太夫と相なり候て、なおなお信仰いたされ候ところ、その節御殿にも御心願あらせられ候につき、かねがね和田御崎大明神へ御寄附おぼしめし御座候由にて、手寄便利よろしき品これあるやと御尋ね御座候故、御断り申し上げ候えども、又々申し参り候につき、和田御崎大明神の儀は先年より※眷属御座候ゆえ、稲荷御勧請つかまつり候えば同社御神慮にも相叶い候なりに存じ居り候由申し上げ候。しかるところ、その後、稲荷社御寄附に相なり候。その後、御幕・御※挑燈御寄附あらせられたくおぼしめし申し参り候らえども御上様恐れ入り、又々御寄附いかがやに存じ、御断り申し上げ候えども云々 京都の三條西御殿が、遠隔の地の伯耆の小神社に御信仰されたいきさつがこれによってわかる。※三條西御殿=三條西中将季知郷※汗入郡妻木村神主=妻木には壱宮神社があり、中島家が代々神職である。※諸太夫=役職名※眷属=親類 ※挑燈=ちょうちん。提灯の別字。また、この由来記には三條西御殿の家臣が代参として当社に参詣したようすが詳細に記されている。嘉永5年壬子9月、三條西御殿ならびに御家内様方御心願により、御代参として縄田采女御下りあらせられたき趣、因州御留守居より書廻り鳥府表より郡方役人ならびに神主へ申し来たり候。左の通り。急ぎ御意を得候。然れば至急申し談じ候御用向き御座候につき、この状達し次第、今夕中、東外江出張所まで御出浮くださるべく候。もっとも村役人にも同道まかり出候様、申し入れおき候間、さよう御心得えなさるべく候。右、御意を得べきため、かくの如く御座候。恐惶謹言。宗旨庄屋 足立久三郎(花押) 9月2日 大篠津村神主 門脇加賀殿 尚もって、その御元持宮 和田御崎大明神へ京都より此度御代参これあり候よう、寺社御役所より御書到来につき、過急御談申したく候間、今夕中、村役人同道にて東外江出張所まで御出なさるべく候、以上 次に郡奉行から、道筋役人へ申觸があり、この代参が、当地方の人々に大変重要な事柄として取り扱われている。一筆申入候。然れは、京都三條西様、この度その御郡和田御崎大明神へ御心願これあり、右御代参として同内縄田采女、去る廿一日京都出立致し候間、同所御留守居(役職名)より、申し越し候。もっとも参りかけ途中にて外用向これある職につき、何日頃御領内へ参り込候義や相わかり難く候えども、いづれ遠からず先觸れ到来いたすべく候につき、左の通りに取り計らい、兎角失敬これなきよう通行、村々へ心得置き候よう、申しつけられべく候。右先状は、相達し次第、写をもって、夜通し飛脚を以って申し達され、その節も取り扱い振り、間合の次第等もつぶさに達しさすべき事。右申し入城代家老の代参の事 伯耆米子城代家老荒尾近江をして毎年旧藩侯の代参として当社に参拝せしめられたる事数次に亘り候事は当時の故老の今尚記憶に存する所にして云々 年賀御祈祷を命ぜられたる事 当時の記録によれば文政11年丑正月殿様42 御年賀につき御祈祷を命ぜられ、極月24より26日まで2夜3日の間御祈祷の云々 衣冠着用御許可の事 写 国主臨時祈祷の節 1日法令衣冠着用の事 御許客候也 戌7月 鈴鹿出羽守(花押)鈴鹿豊後守(花押) 櫃田上総殿 元宮社叢(御崎の森)「伯耆志 巻6第6 会見郡6」の大篠津村の項に次のような記述がある。和田御崎大明神旧地1村の西南1丁余の所なり。古池あり東に流れて海に入る。御崎川と呼べり。土人霊水と称す。行穢を破る者これを飲めば忽崇りありと伝えり。是又神慮の然らしむるものか。森の中に泉が湧き出して御崎川となっていたことがわかる。尚、現在森にある社は豊受姫命を祭神とし、明治24年に創建されたものである。勧請発起人は、安田良忠、安田 勇(当時の村長)の2名となっている。棟札 奉新建豊受大神宮御舎成就攸明治24年7月26日また、この森は昭和53年4月1日、米子市の天然記念物に指定された。米子市教育委員会の指定理由は次の点をあげている。1.弓浜半島の砂地地帯に現存する自然林として貴重な存在である。2.御崎川の源となる古い泉を有し、郷土の古代信仰と、近世の弓浜開拓の歴史につながる歴史背景をもつ。3.神社の聖域であったため、自然林がそのまま残されており、弓浜半島に例を見ない多種類の植物が生育している。(八)祭りについて 現在、和田御崎神社の例祭は4月15日であるが、古くは旧暦6月14日、15日の両日であった。いつ頃、どんな理由で例祭日が移動したのか。安田正信氏の談によれば(昭和57年3月)以下の通りである。六月中旬は梅雨のあける時期である。村中の各家庭でつくる「祭りの料理」が大変腐りやすく、もっと気候の良い時に移そうということから、4月15日に変更されたとのことである。この他に別の理由があったかどうかは知る術がない。6月14日の前夜祭は新暦7月14日の夏越祭りとして今に残り、6月15日の例祭のみが新暦4月15日に移ったものであろうと想像される。また、春祭りの農具市や苗市も明治四十五年、例祭日の変更以来のもので、その年には農具製造者等に露店を開くよう案内を出し、氏子中から弁当をふるまって招へいしたと伝えられる。苗木市も現在は庭木が主体であるが、養蚕の盛んな頃は桑の苗を売る人々が県道に添って長々と立ち並んだことは、現在も記憶している人は多い。(九)櫃田家について「伯耆志巻六第六、会見郡六」(因伯叢書 第四冊)の陰田村の項に「産土神日御崎大神宮 神主 櫃田氏」とあり、続いて櫃田氏は後朱雀天皇の長暦(1037~39)中三位検校政治の三男行政当地代官として来り。地名の犬田を姓とす。(米子市陰田は古くは犬田と称した。)御土御門天皇の延徳(1489~90)中今の姓に改むといえり。その故詳ならず。かくて犬田は上古より出雲日御崎社の領地にて当社は上の如く中古勧請せるが故に、特に社領を寄附する事もなく出雲の攝社にて在りしなり。云々とある。要するに米子市陰田は出雲日御崎神社の神領地であり、そこの代官として赴任したこと。古くは犬田という姓であったこと。後に出雲より勧請された陰田の日御崎神社の神主であったこと等がわかる。日御崎神社の最古の棟札 正徳5年(1715) 日御崎神宮奉建立一宇成就櫃田美濃守藤原一吉 これが最古の棟札であるが、当家に伝わるものは十六代前、櫃田甚兵衛藤原吉里(慶長6年没、1601)までさかのぼって辿ることができる。大篠津へ入籍したのは明治6年櫃田寿雄である。現在より四代前に当る。(十)その他 次のような文書が残されており、藩制の末期の宗教政策をさぐることができる。明治3年のものである。切支丹宗門の儀。先年仰せいだされ候通り、今もって懈怠なくその旨を守り奉り、ならびに※転び候者の類族、次に※悲田宗・不受不施、御改めの趣、これ又その意を得奉り候。銘々弟子ならびに家来その外、存じ届くべき程の筋目これ有る者、右の品々疑わしき儀候者、ひそかに申し上ぐべく候。かつ又召しつかえ候者ども吟味を遂げ寺手形取り置き、誓詞致させ候。自然他客来り候節は、宗門承り届け、切支丹転び候者の類族とか相尋ね、又は悲田宗・不受不施にてこれ無きやと相改め、きっと御断り申し上ぐべく候。万事觸頭まで相断り上ぐべく候。依って書き上げくだんの如し。明治三年五月 神務局御中〔米子近郊・弓浜部の神職四十名の連名があり、すべて花押が印してある。〕※転ぶ=キリシタン教徒が改宗すること。※悲田宗・不受不施=当時キリシタンと共に禁制の宗教であった。このような文書が、なぜ当家にあるかを調査したところ、次のことが判明した。明治三年、櫃田吉正(文政四年生)が鳥取藩から神職觸頭を任命されている。文末にある「万事觸頭まで相断り申し上ぐべく候」とあるところから、櫃田吉正が職務上この連判状を受けとる役目にあったと思われる。この原稿を書くに当たり、先の「和田御崎神社へ三條西御殿より代参由来記」及び「切支丹宗門の儀」その他の古文書の解読には、県立米子図書館 主任司書 畠中 弘先生の尽大なる御協力を頂きました。厚く御礼申し上げます。
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