日吉神社

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タイプ
神社
名前
日吉神社(ひよしじんじゃ)
所在地(住所)
秋田県秋田市新屋日吉町10−67
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公式サイト
https://hiyoshi-jinja.jp/
主祭神
大山咋神(おおやまくいのかみ)
配祀
積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)
大物主神(おおものぬしのかみ)
崇徳天皇(すとくてんのう)
大名持命(おおなもちのみこと)
少名彦名命(すくなひこなのみこと)
御由緒
御縁起
御神徳
歴史等
<由緒>(平成祭)
大同元年(平安時代・806)由利郡勝平山(新屋地方は、もと由利郡に属していた)の麓に鎮座していたと古伝は示している。(明応8年6月19日、由利維平が二十一神を鋳込んだ鏡、即ち朱仏丸を奉納したが、それに大同元年の創立という裏書があったという)その後新屋町の南方凡そ5町の地、字田中屋敷に移り、その理由も明らかではないが、天長7年即ち830年の大地震の結果、この地に移転したものと思われる。今、字一本木といい、その傍に別当堰、獅子舞小路等の字名があるが、共に日吉神社に縁故のある地である)1141年ー永治元年、現在の地に遷座したものといわれる。その御神体は、近江国(滋賀県大津市)官幣大社日吉大社の御神体を作った余材であり、実に千載の遺物であると伝えられている。尚昔から坂本(近江国坂本鎮座日吉大社)の別社とも称している。その為代々領主の尊崇厚く、世々社殿の新改築並に多額な社領の寄進を受けている。その昔、平泉藤原氏の家人で由利郡に居り、後頼朝に仕えた由利維平が、この地の領主であった時、7千石の社領を寄進された。明応の末になって、由利氏が亡び、赤尾津光善が代って由利郡を領有することとなったが、やはり、もとの通り領主の崇敬が厚く社領7千石を受けた。(赤尾津氏は由利12党の1人)その後慶長の末になって、その裔、治部少輔光政がほろび、最上出羽守義明がこれに代って由利郡を領有するようになってからは、社領が悉く没収されてしまった。そこで、赤尾津氏の遺臣である小野金助守就(幼名を蔵人といい、小野筑後守の後裔と称されている)が、大変これを憂い、「当日吉神社は、古来久しく、領主から重く崇敬され、社殿築造等にいたるまで、悉く領主の管掌するところであったことが、古代の棟札の文を見ても明らかである」と言って、情を尽して、最上氏の地頭、山形豊前守満茂に陳情した結果、満茂これを許して、元和6年(江戸時代・1620)8月社殿を修理し、その上社領2千刈を寄進したのである。その後間もなく最上氏が亡び、幕府徳川氏の領地となって、本多上野介がこの地を知行することとなった。そこで、小野金助守就が又、当日吉神社の由緒・縁起、信仰を本多氏に述べて、社領2千刈を以前の通り所得することになった。さらに元和八年(江戸時代・1620)この地が秋田藩の領地となるようになってからも、小野金助守就とその子七郎右エ門守景の2人は、秋田藩の代官、梅津半右エ門等に、この神社は古来歴代領主の崇敬が厚く、ご霊験ことさらに顕著な社であることを訴えたので、藩主佐竹氏から、社領として、稟米3石5斗の寄進を受けた。ついで寛文9年4月(1669)社殿が造営され、それから後は、佐竹藩内格別の崇敬社となって明治に及んだのである。明治維新以後は社領が廃止されたが、古来代々領主の崇敬が厚く、霊験いやちこなる故を以て、明治五年、郷社に列し明治12年10月20日、県社に昇格した。惜しくも明治28年3月1日、俄然拝殿から出火し、御神体、朱仏丸、社殿等悉く焼失し、ただ朱仏丸の破片が残っただけであった。直ちに、仮殿を新築し、明治33年5月20日、官祭招魂社の絵馬堂を購求し、修理を加えて拝殿を建築した。明治39年9月28日には、神饌幣帛料供進神社に指定され、明治43年3月15日には、字押切の無格社、事代主神社を、大正2年6月5日には字黄金谷、無格社金比羅神社(これは、愛宕町の三吉神社、字黄金谷の稲荷神社、字黄金谷の船玉神社、字黄金谷の諏訪神社、字三ツ小屋の三吉神社を合併した神社である)及び、境内社であった稲荷神社、北野神社を合社とし、大正6年5月20日になって漸く懸案の本殿が新築落成した。昭和15年5月、幣殿が増改築された。昭和20年8月15日、第二次大戦は終り、政教分離のたて前から、神社の制度は大きく改変され、県社の社格は廃止され、神社は宗教法人法に基づく、宗教法人となった。国有財産であった境内地は、無償譲与を受け神社財産となった。昭和42年廻廊新築、昭和44年、日吉神社社務所が改築されている。日吉大神は古く、山王大権現ともよばれ、山王さんとして親しまれていたが、昔から「新屋の山王沓まかせ」という諺があった。これは、毎年旧4月26日(今は5月26日)の祭典には神輿が練り歩く。この時、神輿の戸張の内に御沓を納めるのであるが、向うざまに置くと御沓は自然に前に向う。その時すばやく神輿を出すことになっている。これは昔からの例であった。だから御神幸には定時間がなく、遅いときもあれば、速いときもある。ある時は黄昏になることもあり、又ある時は予想外に速いときもある。新屋の人は、速いのを非常に喜び、御神幸がおそければ神様の御機嫌が悪いからだと忌み慎んだ。御神幸の遅い速いによって、今年の作を占ったものである。日吉神社が百三段(新屋・浜田・豊岩石田坂周辺)の氏子によって親しまれ、又霊験殊更にあらたかであった、御神徳の一端として特記しておきたい。

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