三輪恵比須神社

パワスポコム  >  奈良県  >  桜井市 >  三輪恵比須神社

タイプ
神社
名前
三輪恵比須神社(みわえびすじんじゃ)
別名パターン
三輪坐恵比須神社
所在地(住所)
奈良県桜井市三輪374−3
周辺宿泊検索


検索距離範囲: 取得件数:
※三輪恵比須神社を中心にして検索します。

アイコン
メディア
公式サイト
https://miwaebisu.jp/
主祭神
八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)
配祀
八尋熊鰐命(やひろくまわにのみこと)
加夜奈留美命(かやなるみのみこと)
御由緒
御縁起
御神徳
歴史等
<由緒>(平成祭)
当神社の歴史を考える場合、どうしても海石榴市(つばいち)の発生にまでさかのぼる必要があります。海石榴市は、日本の市の最初で、一般には、山人と里人とが物々交換をしたことがそのはじまりとされています。それから徐々に物資の交易が盛んになって大いに発展を遂げるに至り、推古天皇16年(608)には唐客裴世清以下12人をこの海石榴市に迎え、盛大な歓迎の宴を催すとともに、重要な交渉をしたと『書紀』に伝えるように、海石榴市は古代における日本経済の中心地として繁栄を極めたものと考えられます。しかし、海石榴市の重要性は、単に経済的な側面ばかりではありません。「市」の語源は「斎(い)ち」、すなわち「斎(いつ)きまつること」であるとも言われています(高〓正秀博士『文学以前』)ように、商取引きに先だっては必ずお祭りが執り行われました。折口信夫博士は、「山人即ち山の神人と里の人とが出あうのが市で、これが日本の『市』の起源である。」とされ、さらに、海石榴市では山の神人である山姥が山から椿の木を持って来て「山づと」として立て「鎮魂祭」を行って山姥が鎮魂の歌楽を舞ったこと、つづいて「市」は歌垣の場となって、若い男女の片歌の問答から「短歌」が発生したことを説明されています(折口信夫博士『日本文学史ノート』)。海石榴市の歌垣は、「影媛」の悲恋の物語(武烈紀)としてあまりにも有名です。また、海石榴市を歌った短歌には、『万葉集』の、海石榴市の80のちまたに立ちならし結びし紐を解かまく惜しも(2951)、紫は灰さすものぞ海石榴市の80のちまたに逢へる児や誰れ(3101)、などがよく知られています。このように海石榴市は古代史に重要な位置を占めたわけでありますが、「延長4年(926)7月19日、大風、此日大和ノ国長谷寺山崩レ、椿市ニ至リ、人烟悉ク流ル」と『日本紀略』にありまして、初瀬川の出水と山崩れによって、地形に変動を生じたため、それ以後市場の中心が三輪の地に移ってこれを「三輪市」と呼ばれるようになりました。この「三輪市」の繁栄を祈って人々は、海石榴市の御神体を現在の地に遷し、「三輪市」の守護神として斎き祭ったのが当神社であります。その後、時代ごとに増改築や修理などが行われ、その時の古棟札がたくさん保存されています。その中で、たとえば、天正15年(1587)の棟札に記された道善以下19人は名主たちで三輪市を管理する町年寄的な存在で、その総支配者の位置にあったのが三田村甚衛門であったと考えられます。この三田村氏を中心としてこのころ「三輪そうめん」が飛躍的な発展を遂げ、全国にその名が知られるようになりました。中世から近世にかけて、「三輪市」は「上市」と「下市」に分かれ、次々に豪商達が現われて繁栄を極めたと伝えられています。特に、上市の木屋(材木商から大名相手の金融業)、下市の布袋屋が有名です。布袋屋は正月米相場の主宰者で、毎年正月6日当神社の「初市祭(初えびす)」には各地から商人達を集め、社頭において初相場を立て、神前に報告したと伝えられています。これが一般に「初市相場」といわれて、その年の商取引の基準となったわけです。現在も「初市相場」の伝統は、大和穀友会や素麺組合の人々によって連綿と受けつがれています。このように、海石榴市から三輪市へ、そして現在へと、当神社は「市場の守護神」として連綿と祭られ、人々は長い歴史の中でたえず福運を招来する神様として熱心な信仰を捧げてきたのです。
メディア紹介
【2023/12/13】<書籍>
成功する人が通う!日本の神社最強ランキング 2024
・仕事・出世を後押しいてくれる神社 72位 日本最初の市場の守護神を祀る


 ←印刷はここで出来ます。
★Gppgleマップで開く / ★Bingマップで開く / ★Yahooマップで開く


お天気