船山神社

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タイプ
神社
名前
船山神社(ふなやまじんじゃ)
所在地(住所)
香川県高松市仏生山町甲1147
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主祭神
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
五十狭芹彦命(いさぜりひこのみこと)
猿田彦命(さるだひこのみこと)
天隠山命(あめのかぐやまのみこと)
天五田根命(あめのいたねのみこと)
御由緒
御縁起
御神徳
歴史等
<由緒>(平成祭)
社伝によれば(人皇第七代孝霊天皇の皇女)倭迹々日百襲姫命、上古讃岐の東部に来り給い、更に移りて当地船山に登り給う。比の地讃岐の中央にして好き所なりと賞でし給いしにより祠を之を奉ず地名百相(倭名鈔百相毛毛奈美)は命の御名によって起れりと、彦五十狭芹命は、百襲姫命の御弟に座し、他の三神は配祀せるという。創建は天平年間といい初め浅野村船岡山に鎮座あり、船岡山は古く百相郷に属し船山と称し、当社又船山神社と称へられ三代實録に「天慶5年11月14日戊午授、讃岐国正六位上、船山神社従五位下」とあるのは当社なりといえり。鎌倉時代まで、社殿宏状、近郷の大社にして国司守護の尊崇厚く細川頼之当社を以て岡館北方の鎮守となし、大野百相の間にて、2石3斗(345㎏)を寄進し、貞治5年3月扁額を奉納せしこと讃岐細川記に詳なり。天正年間に至りて、土佐国長曽我部元親当国を侵撃せし時、不幸にも当社は焼損に罹りたる以て別当神宮寺の境内に社殿営み奉遷せり、これ現今の鎮座地にして爾来神宮寺大明神と称せらる。神宮寺は渡世変により廃寺となりしが当社は氏子の奉祀する所となり存続す。然れども社号は猶神宮寺大明神と唱へられ、旧藩の帳簿に神宮寺神社と載せられたり。高松藩主松平頼重法然寺創立神宮寺の地を以てその寺領とするに及び領内一社の神として崇顧厚く年毎に米1石2斗(18㎏)の奉納あり慣例となり明治初年に及ぶ。又社にある古松は頼重公が日向国より移植せしものにして他の松と種類を異にせり、明和2年正月火災により(古老の言伝に曰く昔は水は清浄なるものとの概念から水場の中に本殿を建立して居たとの事御神体焼失はまぬかれたが瓦類其の他焼土と化したもの全て水場の中に埋め立てしたとのこと。たまたま瓦類の出土を見るに奈良朝時代和同~大同年間の造り模様尚瓦の裏面には布にて型づくりし布目のあとあり、古老之を布目瓦といえり今より1100年前のものと推測す)安永2年本殿を再建し文化3年弊殿を建築せしが爾来久しくなりたるを以て、明治32年改築、明治初年社号を百相神社と改むる。大正5年10月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。戦後昔の社名船山神社に復旧す。昭和初期頃より御拝殿改築気運ありしが時運いたらず昭和38年に宿願の御拝殿釣殿共に一般氏子各位の労務奉仕並びに崇敬者信徒の御寄進御協力によって願望達成するに至りました。同50年御本殿の御屋根銅鈑に葺替えつづいて翌52年慶応2年建立の隋神門の御屋根葺替の大修繕敬神の念厚き氏子は昔の宏壮な社殿の姿を偲びつつ復旧に努力致し居ります。尚本殿傍には楠樹令1000年余り根もとのまわり12.8メ-トル枝葉のひろがり約37メ-トル樹勢きわめてさかん(昭和35年7月7日県の天然記念物に指定)初夏の頃の新緑美しさは格別、境内には数本の梛(ナギ)の銘木あり。

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