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| <由緒>(平成祭) 当社の由緒は香西成資の著南海通記や、香西氏の一族で上笠居村佐科に分家していた新居寿硯斉直矩の著「香西記」に「讃陽香西藤尾八幡宮来由記」及び「香西藤尾八幡宮来由記付録」が掲げられていて、江戸時代中期頃の伝えを知ることができる。(南海通記は印刷の単行本があり、香西記は香川叢書第三に全文を掲載されている。)しかし漢文であり又長文なので、ここにはその概要を「香川県神社誌」上巻からとり、尚又「香西史」に採録の和文の縁記を次に掲げることとする。「香川県神社誌」に掲げる由緒は次のようである。嘉禄年中香西左近将監資村の創祀する所にして、藤尾八幡宮と称せらる。資村は中御門中納言家成の後裔なり。承久の乱関東に与して功あり、阿野・香川2郡を領し香西に居り、当地擁護の神なきを憂へて豊前国宇佐八幡の神霊を迎ふ。神輿初めて生島浦に着く、依って其処を宮の浦と云ふ。浦の南檀上原に仮宮を造営して神輿をここに滞め、御幸の装を整へ笠居郷山口邑藤尾の原に社殿を営みて鎮座し奉り、以て当郷擁護の神となし藤尾八幡宮と称し奉れり。数年にして更に磯崎山に遷座あり。磯崎山は香西氏が居城たる佐料城の北に当り、海辺に位し風光佳良なり。擁護の神なれば磯崎山の名を改めて藤尾山と称し、南面を墾きて奉遷し、旧社地を以て神領の田となし神高と称せり。然るに天正2年阿波の三好氏来りて香西氏を攻むることあり、又長曽我部氏の起るありて、香西氏はその居城平陸にして守り難きを察し、城地を藤尾山に求め天正3年社殿を山上に遷し、その跡に城を築く。藤尾城これなり。天正7年香西伊賀守佳清比の城に移る。天正10年長曽我部氏の攻むる所となりしが、香川山城守信景間に居て和を謀り佳清遂に元親に党す。元親の豊臣秀吉に降るに及びて秀吉遂に香西氏の城邑を廃し、香西氏離散して後当社も亦衰微するに至れり。慶長年中香西氏の支族植松彦太夫往由入道浄光等願主となり、香西・植松・新居の各氏及びその支族佐藤・竹内・諏訪・四宮の諸氏と力を協せ、社殿を旧地藤尾山に復して笠居一郷の神として崇敬せり、国主生駒一正社領6石1斗6升を寄進し、松平氏亦之に傚ふ。後社号を宇佐神社と改め、明治6年郷社に列せられ、同40年9月21日神饌弊帛料供進神社に指定せらる。明治16年火災ありて社殿神庫を焼失せしが、同32年再営せり。 |
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