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| <由緒>(平成祭) 当宮鎮座の縁起は詳かならざるも御尊像の背部に最明寺時頼公守本尊、経塚駒留八幡宮北条左近太郎入道成願奉安鎮所、徳治3戊申年10月23日(約650年前)と記してあります。北条左近太郎入道成願は当時即ち鎌倉時代此の地の領主にして篤く八幡大神を崇敬せられ、其の領土の精神的中心たらしめんが爲徳治年間昔日の報賽として旧社殿を造営し経筒を納め駒留八幡と崇め奉つた。其の後戦国時代に移り此の地一帯は世田谷城主吉良家の所領となり永禄の頃城主第八代吉良左兵衛佐頼康が非業の死を遂げたる1子を1社相殿として祀り若宮八幡と唱へ供米田を寄進し家門繁栄を祈願した。爾来旧世田谷方面の人とは今尚若宮八幡と稱へます。徳川時代に入り慶長14年以来此の地、上馬引澤は領主大久保氏の宰地となり累代この社を上馬の鎮守と崇め部落民の精神的統一と知領の統制のため本社の維持に力を注ぎ、殊に天和2年壬戍年正月29日内陣額並華表額を藤原姓大久保一郎右衛門尉好長、同姓大久保内近忠義の奉納を以て家門の繁栄を祈願し、同年領主大久保伊賀守は社前の石階を修理し社殿を寄進した。前記の尊像経筒は其の改修の時発見したと言ふ。寛政11巳未年8月吉日大久保伊賀守藤原忠雄八幡宮社殿御厨子修復寄進幣帛料として田地3反5畝歩を奉納して家門の繁栄を祈願した。明治5年10月村社に列せられ、明治40年8月駒留八幡宮と改称する。明治42年7月20日天祖神社を合祀する。天祖神社は三軒茶屋部落旧称お伊勢の森に鎮座せしその部落の鎮守として尊祀せられてありました。 |
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