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| <由緒>(平成祭) 本社の創立は遠く大同二年にして、曽ては真名子城主岡本若狭守秀勝の崇敬社なりき。宝永8年正月23日を以て神位宗宣正一位を進めらる。殊に領主本多大隅守より祭祀料掃除料として畑3反7畝を寄進せらる。奉祀特に厚かりしが明治維新の際土地となりぬ、又社域915坪老杉古桧蓊蔚として境内寂として漫りに敬神の念を惹起せしめたり。社殿は天保13年の再建に懸り、其の結構金碧爛美なかりしと雖も、素朴却に神々しく拝殿の天井は平田篤胤の門人若林文章の筆に成り、小倉百人首及花鳥の図にて丹精の妙異彩を放てり。星霜60有1年即ち明治38年8月10日、村内某氏子宅の火失により紅蓮の炎遂に20余戸を類焼し、本村未曽有の大火に大宮神社も回祿の災に罹り辛ふじて御神体を奉遷のみにて外、盡く鳥有に帰せり。我子一同驚懼惜の処を知らず。同年11月15日、氏子大会を開き、曩に明治35年の風災に村内各攝社の頽廃甚だしく、今にして大修繕に再建せざれば敬神の念失するの甚しと協議一決、大宮神社を愛宕神社境内に移転再建。男丸鎮座 五代尊神社、山神鎮座 大山祇神社、岡鎮座 大明神神社、同八竜神神社、真上鎮座 大山祇神社、票の木内鎮座 大山祇神社、向盾鎮座 高尾神社合祀に決定せり。復興の手順完璧を期し、明治40年8月6日、縣知事の許可に基き同十九年合祀祭執行。明治42年4月15日、本殿拝殿全く竣工せり。昭和13年9月28日、神饌幣帛料供進指定社の指定を受け、現在に到れり。 |
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