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| 【朝日山古戦場の由来】<説明版> 明治戊辰の五月二日、小千谷、寺町 慈眼寺に、本陣を置いた、征討軍軍監岩村精一郎と、長岡藩家老河井継之助の会見、いわゆる「小千谷談判」の裂に端を発し、征討軍と同盟軍の死闘の舞台となったのがこの朝日山古戦場である。 当時、征討軍軍監岩村精一郎は弱冠二十四歳、長岡藩家老河井継之助は四十二歳であった。 談判決裂となるや、この山頂に砲台を構えて守備していた長岡藩安田隊並びに会、桑二藩兵に対し、征討軍は時山直八の率いる長州奇兵隊二百人を以て五月十三日夜明けの濃霧に乗じ奇襲攻撃をかけた。時に主力の長岡藩安田隊は夜間の事とて、若干防衛を手抜いていたところを不意を突かれ、焼の城声銃声にあわてて戦備を整え応戦した。闘刻やがて濃霧が薄れるや西軍指揮官時山直八は桑名藩三木重左工門の狙撃にあい遂に戦死し、その他多数の死傷者を出し、全軍退却の已むなきに至り、この奇襲作戦は完全に失敗した。以後両軍とも譲らず持久戦となった。 時にこの方面における東軍の軍勢五千に対し、西軍は一万余、しかもその主力薩長は最新式の七連発スペンサー銃、これに対し東軍のそれはまことに火器旧式のものであったが、死を決した防戦の決果、なかなか終結に至らず、五月十三日から十九日までの朝日山榎峠、妙見方面の戦には両軍の大砲小銃の響きに昼夜間断なく、両軍とも死人怪我人多く言語に絶する惨状であった。 時あたかも 信濃川は歴史的の大洪水で、雨天曇天続き夜間星影もなく、寒冷のために正討軍の困憊はその極に達した。北陸道先鋒総督府の参謀山県狂介が次の和歌を詠んだのは実にこの時の戦いであった。 「あだ守るどりでのかぶり影ふけて 夏も身にした越の風」 攻撃に難を感じた征討軍は作戦を変え、直接長岡城をめざし信濃川西岸を進攻した。 激戦の末、やがて西軍により長岡城の炎上攻略をを察知した東軍は悲運の退却となり、敵の追撃を避けるために、日暮れを待って秘かに後退し、会津方面に逃れたと伝えられる。 今なおこの山上には当時を偲ぶ塹壕の跡も遣っている。 〔小千谷市〕
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