廣田神社

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タイプ
神社
名前
廣田神社(ひろたじんじゃ)
所在地(住所)
青森県青森市長島2-13−5
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公式サイト
https://hirotajinja.or.jp/
主祭神
天照大御神荒御魂(あまてらすおおみかみのあらみたま)
配祀
中古三十六歌仙藤原実方公(ちゅうこさんじゅうろっかせんふじわらのさねかたこう)
相殿
大国主命(おおくにぬしみこと)
事代主神(ことしろぬしのかみ)
蛭子命(ひるこのみこと)
創建
996年〔長徳2年〕
御由緒
御縁起
御神徳
歴史等
<由緒>(平成祭)
当神社の草創を尋ぬるに、往古一条天皇の御代、長徳年間(西暦996)、時の左近衛中将より陸奥守に任ぜられた藤原実方公が蝦夷鎮撫の為、外ヶ浜貝森村に「夷之社」を創建して陸奥国長久の平安を御祈願あらせられたのに発祥する。従って御祭神も神功皇后が新羅御征討の砌、皇軍を擁護し給った天照大神の荒魂を主祭神とし、之に国土経営の神、大国主命、事代主命並びに蛭子命を配祀し奉った。降って、爾来幾星霜、公私の尊崇彌々厚く、寛永2乙丑年(西暦1625)には津軽二代藩主信牧公が、その臣奉行森山内蔵之助彌七郎に命じて青森町を開設せしめておった際、当神社をその産土神として地を南方(香取神社境内西北の地)にトし、之に遷座し奉らせた。而して承応3年甲午年5月(西暦1654)には末社として春日大明神(祭神天児屋根命)一宇が建造された。越えて明和2年(西暦1765)当地を襲った大強震があった為、社殿も破損を蒙り、柳町(神明新社地とある)に御遷座相成った。それから天明4甲辰年(西暦1784)に疫病大いに流行し、就中深沢部内が猖獗を極めたのであるが、その惨状を徳川将軍聞召され、江戸幕府より疫病除けとして箱入札1体、白木造御祠入御弓2張、御矢2具を時の代官笹森権蔵、佐藤忠太夫の両名宛に送付され、之を外ヶ浜産土神に奉安して息災を祈れとの命が遭ったので、同年7月之を当神社に奉祀、祈願して、漸く病魔を退散することを得たので、爾後広田社(広田宮とも社とも称呼されておった)は病者の守護神として一入広く一般の崇敬を集めるようになった。続いて天保2年6月(西暦1831)には神社は更に杉畑(現在市役所の地)に遷宮、そして天保5甲午年(西暦1834)には藩公御来青、親しく当神社にご参詣あらせられて、特に御紋章入りの幔幕を御奉納の上、本殿、鳥居、橋等の再建を仰付けられて、大野村の田夫23人を差し遣わされた。その後明治34年9月(西暦1901)に現在の社地(長島124番地1号、85番地1号地、之坪数1800坪)に遷宮せられたのである。古来当神社の祭典は春秋2季に執り行われ、春季は5月5日の節句の日に「御旅」と称して、仮殿を蜆貝町の浜通りに設置して御神幸を仰ぎ、農漁民、旅泊の船人等打集って夜籠をして、大漁豊作と航海の安全を祈願し、又秋季には10月20日の夷講に例祭を執行した。依って従来、海産、農産の守護寄福があらたかであったので、住民の帰依信仰も悠々深く厚く、何時しか「夷之社広田宮」と称呼し奉るようになった。そして境内末社として住吉神社(祭神、表筒男命・中筒男命・底筒男命)、稲荷神社(祭神、倉稲魂命・猿田彦命・大宮能売命)胸肩神社(祭神、市杵島姫命)等も鎮座するようになった。尚、当神社は外ヶ浜経営の一大元勲たる中将実方公の神霊並びに青森町の建設と発展に絶大なる貢献を致された当市の一大恩人、第二代城代進藤庄兵衛翁の神霊を祀る唯一の由緒ある神社であって、市民たる者の斉しく景仰尊貴して感恩瞬時も忘るべからざる御社となって居るのである。然し現神社は戦災後、国道、市道と数軒の住宅にその境内地を割愛し、相当の出血を見たのであるが、幸い氏子崇敬者諸賢の正しい認識と深い同情と篤い信仰の力によって、その再建も逸早く目覚しいものあるは、当市の為、復興日本の為、誠に慶賀欣幸に堪えない処である。どうか機会を得て当神社に参向、礼拝下され、心魂を祓濯して、心気を清潔にし、虚心坦懐、淡爾として神人合一の境に浸り、絶対強く正しい霊感を受けるならば、何事か自在無礙にならざるものとてか之あろう。大神様は常に我々を照覧し給えて参り詣ずる者を清め給い、慈しみ給い、救い給うであろう。又我々は郷土の先覚の神霊に祈念してその御導きと御加護を得て、我郷土を、日本国を、そして世界全体を更に清く美しく、住み良い所となさねばならないだろう。

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