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| <由緒>(平成祭) 当神社は慶安五年(1652)高松藩主松平頼重公が香川郡宮脇村の本門寿院境内に社殿を建立し東照宮の神霊を奉斉したのにはじまる。以来山王社として歴代藩主は崇敬してきたが文化元年(1804)当時の高松藩主第八代松平頼儀公は、この風光明媚な屋島山麓に社殿の造営に着手し、文化12年(1815)に完成した。その造営費は当時の金額で約14万余金と言われている。その後明治4年には冠獄神社と改称し、さらに明治7年屋島神社と改称同年県社に列せられ明治15年藩祖松平頼重公を合祀して崇敬していたが、昭和48年2月12日思わぬ不慮の災害に会い、本殿、拝殿等を全焼したが辛うじて唐門は火災から免れ無事であったことは不幸中の幸いで会った。翌年11月には再建され現在に至っている。彫刻等は、唐門が3分の2を占めており、江戸時代の粋を極めた美術工芸品は見事なものばかりで、中でも正面上部にある鳳凰の鳥、御門の両側の柱にある上り龍、下り龍等は格別のできばえである。棟梁は、左甚五郎の6世、5代目の左利平忠能が父の名跡を継いで高松藩松平家の客分棟梁となり、文化12年4月に藩命を受けて讃岐東照宮の彫刻彫金等を棟梁し、完成したものである。 |
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