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| <由緒>(平成祭) 遠い昔からこの土地で土に携わって生活をして居た人達や、土地の有力者の人等が相談をし、土を司どる神、大土御祖神を今から1241年程前、山田原の御霊を海部村に勧請し、後に村の中の清浄で村人などの集まりやすい中心場所である現地に移し、瑞籬村と称してお祀りし、それが現在の彌都加伎神社の起源となり、光仁天皇の御代宝亀元年に井上新王の霊夢により御厨より、御供糀を豊受宮に奉献することとなり、祭神の大土御祖神に土之御祖神、埴安比売神を合わせて奉斎する事になったと言われ、和名抄郷名の資母郷が玉垣村に当たるといわれ古い郷である。玉垣御厨に関する記録として、延文5年の「神鳳鈔」には「玉垣御厨内宮82町3段余九石6.9.12月」とあり、地域の広大さがうかがえる。「宗祇名書方角」には「古は御厨の10人衆と云うものありしか、今は亡ふ」と記され、こうした神領地の運営も推察される。慶長19年~安永9年の間(166年間)に10回の修繕、御造営の事実を伝える棟札ある。明治2年3月明治天皇御東幸の途次亀井茲監を勅使として奉幣代拝の処遇を受けた。明治39年神饌幣帛料供進指定神社になる。明治41年村内無格社を合祀、昭和4年、先に合祀した須賀、宇気比、胸形、熊野、八幡、深田、吉田の7神社に合祀前の祭神を祀り、氏子区域は旧玉垣村(現東玉垣、西玉垣、南玉垣、北玉垣、4町と桜島町、末広町)全体である。醍醐天皇の延喜5年の頃、社名を彌都加伎神社と改めたが、以前は土宮、或は土御前と呼ばれ、陶器、左官、粘土、土木工事、各業の外農民はもとより土に携わる職業の人達、又豊受宮に糀の奉献により酒、みそ等の職業の人達の多くの崇敬をあつめ、当時の御神徳の深さをうかがい知る事ができる。 |
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