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| 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 国狭槌神(くにさつちのかみ) 豊玉彦命(とよたまひこのみこと) 気吹戸主命(いぶきどぬしのみこと) 速秋津彦命(はやあきつひこのみこと) 大海分子命(おおわたつみわかみこのみこと) 大海分姫命(おおわたつみわかひめのみこと)
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| <河童石(かっぱ石)のいわれ>(説明版) 水源池も水道もなかった昔は井戸に雨水だけが頼りで日照りが続き農作物などが育たなくなると「雨乞い」の行事が水神々社で行われました。その時神官は神様に祈ると共にこの石に自生している「苔」の色・つき方で降雨をうらなったとされています。当時の中島川清流で付近の住民は飲み水にも利用していましたが人家が多くなるにつれ生活用水や汚物用に流したり捨てたりしたため清流にしか住めない「河童」は生活できなくなりたびたび人間にわるさをするようになりました。そのため神官は川を汚さないように役所に願い出ると共に毎年五月のいい目をえらんで河童たちを神社に招きひと晩中いろいろとごちそうをしていたそうです。その時の料理に必ず出されていた物に”竹の子”がありました。神官にはやわらかく煮たほんものの竹の子を、河童たちには古い竹を輪切りにしたものを皿に盛って出したそうです。神官がうまそうに食べるのを見て河童も食べようとするが歯が立たない(食べることができない)楽々と食べる人間を見て驚き敬服したということです。それからは人間に対するわるさもしなくなりました。付近の人たちの協力で川もきれいになりました。神官と親しくなった河童は神社のお祭りの日など前日神官がお供えにすると魚屋その他の物を紙に書き、この石の上にのせておくとお祭りの日には要求した通りの品物が載せられていたとのこと。それからこの石は河童石と呼ばれるようになりました。水神々社は代々八幡町(やはたまち)にありましたが付近に住宅が密集していたので大正時代にこの土地に移りました。 この石を正面からみますと蛙(ひきがえる)がうずくまっているように見えます。長崎ではかえるのことを「どんく」と言うので別名”どんく石”とも呼ばれています。
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