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| 拝殿(2014/09/18) |
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| 楠木正成(くすのき まさしげ) 楠木正行(くすのきまさつら)
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| <本邦創祀正一位 楠神社由緒沿革>(由緒版) 楠神社は安政三年(一八五六年)佐賀藩の執政鍋島安房が造営した。 楠公なんこう父子櫻井の驛訣別の像が祀ってある。 この木像は寛文二年(一六六二年)佐賀藩士、深江平兵衛入道信渓、大木英鐵等が京都の仏師法橋宗而に製作を依頼して同三年佐賀郡大和町永明寺に小堂を建てて祀った。 それから百八十年後佐賀藩校、弘道館教授枝吉神陽等が古文書によって楠公父子像を発見、嘉永三年義祭同盟を組織し信渓の裔深江俊助種禄を盟主として高伝寺の末寺梅林庵において盛大なる祭典を行った。 これが義祭同盟の起りであり、佐賀勤王論の始まりである。 開明的な十代藩主直正(閑叟公)は義祭同盟を支持、執政安房は自ら盟主となり、安政五年五月二十五日新装の社殿で盛大な義祭を執行した。 同盟に参加したのは江藤新平(のち司法卿)大木喬任(のち文部卿)副島種臣(外務卿)島義勇(秋田県令)ら郷土が生んだ明治維新の元勲として國事に盡瘁した佐賀藩の功臣は悉く此の義祭同盟に参加した。 大隈重信(総理大臣)十七才、久米邦武(東大名誉教授)十六才はこの時最年少者として初めて参加、この境内で日本一君論いっくんろんを論じ合った。 大隈は「この同盟の中から後年政界に立って頭角を現わした人も多い、予がこれに加盟したのは、世に出て志を立てるきっかけになったと言ってもよい」と回顧している。 こうして楠公父子の神霊に育くまれて明治維新の志士たちが生まれた。 この楠公父子の像が佐賀に始めて祀られたのは、かの有名な水戸光圀が建てた湊川建碑「嗚呼忠臣楠子之墓」(神戸市湊川神社境内)に先立つこと二十九年実に我が國初の楠公を祀った神社である。
<非理法権天>(由緒版) 楠正成がその旗に印せし文字 非は理に勝つこと能あたわず、理は法に勝つこと能わず、法は権に勝つこと能わず、権は天に勝つこと能わず、天は宏大にして私無しと云う語にもとずく
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