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| 拝殿(2013/09/27) |
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| <浦守稲荷神社の由緒>(由緒板) 御祭神宇迦之御魂命は五穀豊穣の神であり、其の昔農業が中心となっていた時食物の豊作をを司った神として重視された祭神であり、後世徳川時代に転じては商売繁昌の神として一般庶民に最も親しまれ神社の摂末社、又は個人の庭内社として多くまつられた祭神であります。当稲荷神社の社記によりますと、大凡三百年前に創立されたもので、当時この辺りはいまだ海辺の茅原で、僅かに鎮座地附近に農漁を業とする一部落があり、これらの人々により稲荷の大神を守り神として、祭ったのが其の起源であります。其の後御祭神の神徳が著しいので里人達により厚く信仰されていましたが、特に徳川中期(宝暦年中)になりまして前の浦(この辺の旧名)の開拓に熱心であり、又当社を厚く信仰していた伊東藤兵衛大人の努力により、神社の設備も大いに調ひました。明治の初年になっては当稲荷神社の霊現な神徳が遠く都内まで広がり参拝する者、又施設や物品を寄進する者が少なくなく、又近世になってから境内の一隅に白蛇弁天が出現したので、土地の人達はもとより遠く京浜間の信仰する者が「弥栄弁天講」を作り年々団体参拝で社頭を賑う等、単に産土の神としてばかりでなく「お稲荷さん」とゆ庶民的な広い範囲に崇敬者をもった神社でありました。今度の戦禍により旧大森の大部分が焼失しましたが、九丁目森ヶ崎の氏子区域は極く一部の災害に留り、神社も無事でありましたのは神徳の力とも考えられます。 ここに当神社三百年祭を兼ね、皇太子御成婚奉祝の祭事を執行するにあたり由緒の大要を記します。 〔昭和三十四年六月六日〕 |
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