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| JR「南小倉」駅→徒歩(20分) 北九州高速道路「下到津」出入口→車(3分) |
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|  拝殿(2012/07/09) |
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| [宗像三女神] 多岐都比賣命(たぎつひめのみこと) [宗像三女神] 市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと) 豊日別命(とよひわけのみこと)
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| どんどん焼祭(1月中旬) 歳旦祭(1月1日) 春季大祭(5月4日から2日間) 秋季大祭(10月14日から2日間)
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| <御事跡>(案内板) 神功皇后は御征韓の後、宇美の里で応神天皇をご出産なさいました。長門豊浦宮に遷幸の際、御船をこの所の津(港)にお寄せになりました。これが到津(津に到る)という地名の起源であり、千古の霊跡を伝えるものでございます。 後に一祠を建て、皇后の和魂をお祀りいたしましたのが当社の始めでございます。 神功皇后は身重のまにまに戦場に赴かれましたが、その大いなる御神力にて胎中の応神天皇を守護され、お導きになられました。以来人々は安産を祈り、社前の川の水を産湯として汲み用いてきました。 因って川名は産川(ウブカワ)とも呼ばれています。(現在の板櫃川) 文治4年(一一八八年)宇佐神宮より宇佐八幡大神を勧請しました。 『豊前国誌』には次のように記されています。 「宇佐八幡宮御分社中においては第一の御社柄といひつべし」 また細川氏、小笠原氏の尊崇も厚く企救郡大社と称せられ、現在に至ります。
<由緒>(平成祭) 神功皇后が御子応神天皇をお産みになり豊浦宮へお帰りの時、舟を此の津に着けられた由を以て到津と号し後に一祠を建て皇后の和魂(やさしく恵み深き神魂)を奉祭したのが当社の起源と云われています。大化の改新(646)の頃、到津の駅は都から太宰府に到る大路の要所として振るいました。社の前を流れる板櫃川は天平12年(740)藤原広嗣の乱の古戦場でもあり、大将軍大野東人は当社に戦勝祈願をしたと続日本紀に記載されています。平安時代の中期寛弘4年(1007)宇佐神宮の神領、到津庄となり約80年後の文治4年(1188)宇佐八幡大神を勧請しました。鎌倉幕府は到津庄を国家安穏、異国降伏の祈祷所として重視し、次いで南北朝争乱時には南朝方として尽くしました。この頃の神社年中行事の記録が天文の宮帳として現存しており当時の祭事は下郷(城野)中村(上・下到津)高槻、郡領(旧小倉城周辺)の四郷が氏子として奉仕していました。永禄4年(1562)宇佐神宮が大友義鎮の兵火に焼かれ、神霊を神宮御分社中第一の当神社に遷座され23年間鎮座されました。天正の末(1587年頃)戦乱相次ぎ豪族によって神領を押領されましたが徳川時代の慶長7年(1602)細川忠興が小倉城の産土神として再興、社領寄進あり、次で小笠原家の封地となるも敬神篤く社殿の大きな改修も三度に及び以後の城主が守護神として崇め、企救郡の大社として郡民と共に尊崇篤く天災・疫病の鎮静の祭祀を司ってきました。明治以降の主要年表は次の如くです。明治5年 1300年祭、同31年 再建、同33年 1330年祭 社殿改修、大正14年 1350年祭、昭和49年 1400年祭、昭和52年、小倉祭復活
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