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| 仲哀天皇橿日宮跡(ちゅうえんてんのうかしひのみやあと) |
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| 仲哀天皇橿日宮蹟、仲哀天皇大本営跡、仲哀天皇訶志比宮址 |
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| 仲哀天皇大本営跡(2012/07/06) |
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| <沙庭斎場>(掲示板1) 仲哀天皇の進取革新内外政策は、開闢以来の大偉業なりし為め、常に沙庭を樹て神教を乞請された聖地である。沙庭が国史に現れたのはこの地が最初である。
<棺掛椎>(掲示板) 仲哀天皇の御遺業を完遂せんとし給ひ、神功皇后は天皇の喪を秘し、天皇の御棺をこの椎木に立て掛けられ、恰も天皇親臨の御前会議を開かれた。この時御棺より薫香漂いたるにより、香椎の名起るものとの地名伝説もあり。
<摂社 古宮大明神址>(掲示板1) 祭神 仲哀天皇 由緒 神亀元年十二月二十日仲哀天皇、神功皇后を併祀する香椎廟とし、新宮に遷宮されてより、年を経て、何時しか(恐らく平安末鎌倉初期)香椎廟が普通神社の如く取扱われ、祭神も神功皇后一柱とせらるるに至り、仲哀天皇の御神霊を聖地に移し摂社として祭る。大正四年十一月十日仲哀天皇を香椎宮に御加列になり又本宮に移し祭る。今旧宮地の玉垣のみ残れり。
<仲哀天皇 訶志比宮址[かしひのみやあと]>(掲示板2) 帶中日子天皇[たらしなかつひこのすめらみこと](仲哀天皇)筑紫訶志比宮[つくしかしひのみやにましまし]治天下也[あめのしたしろしめしき]と古事記に記せる。 宮址にして、天皇の八年正月二十一日(西暦一九九年)定都。
<仲哀天皇崩御の地>(掲示板2) 天皇は開間以来の進取革新の内外政策を御実行されて居たが、惜しくも九年二月六日(西暦二〇〇年)この宮にて崩御、御年五二歳。御陵は大阪府藤井寺市恵我長野西陵なり。
<仲哀天皇の大偉業>(掲示板2) 天皇の大偉業は実に廣大にして、其の一端が神功皇后の三韓征伐である。 此の宮が策源地であったために大本営址として記念碑が建って居る。 今日我國が世界の独立國として平和にして文化國として雄飛し居るのは、実に其の基を開かれた天皇の大偉業による。 此故に此宮は平和にして文化國日本の発祥地なり。 |
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