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| 地下鉄箱崎線「箱崎宮前」駅→徒歩(6分) 地下鉄箱崎線「馬出丸大病院前」駅→徒歩(8分) |
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| 拝殿(2012/07/06) |
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| <翁別神社の由来>(掲示板) 寄せては返す白妙[しろたえ]の波に続く千代の松原は、名実共に風光明媚の海岸であった。三韓征討(西暦二〇〇年)の時神功皇后がこの箱崎浜に趣かれた際に武内宿称はお供して、草木が繁る大自然の小高い丘の清水湧く鏡のように清く澄んだ小池の水に舌鼓を打たれ翁別神社の銀杏[いちょう]の蔭で小憩されたのであります。それから約六百七十年後、この箱崎一帯の浦に鶴が啼き渡って葦津[あしづ]の浦と呼ばれた頃、ここに老境に入っても子が無いために嘆きの漁夫がいた。筥崎宮に日参して「子が授かるように」と祈願を込めたその甲斐あって満願の日に懐胎して元慶[がんぎょう]四年八月十六日の夕、女の児が誕生したので、月に縁の「十六宵[いざよい]」と名付けられ、神の申し子と愛で育てられた。十六宵は美しく成長して五才の春、丘の小池に水鏡[みずかがみ]して黒髪を梳[くしけず]るのが常であった。その水は甘露の味がしたので、里人はこれを鏡の井と称した。やがて十六宵が十三歳の時、その麗しい容姿は一入[ひとしお]優れ筥崎宮に下向の宇多天皇の勅使の耳に入り、遂に召しだされ十六宵は官女=白梅姫[しらうめひめ]となり内裏に宮仕えすることになった。その後白梅姫(十六宵)の艶[あだ]な姿に想いを寄せた北面の武士高丘蔵人[くらんど]と夫婦の契[ちぎ]りを結び、都を辞して懐かしの故郷に帰った。その頃延喜[えんぎ]元年藤原時平の讒言[ざんげん]により筑紫の大宰府に配流された菅原道真公の身辺に敵の危害が迫っていたので宇多法皇は御宸慮[ごしんりょ]を煩わされ使を以って高丘蔵人と十六宵に警固を命ぜられた。その護衛に苦難の日が続いたが、やがて延喜三年菅公死後十六宵夫婦は法皇に報告のため、老松若松二人の子供を翁父母に預けて都に上り、後仏門に入って須磨のあたりで一生を終えたと云う。 高く聳える千古の銀杏の蔭に鎮座まします翁別神社は、武内宿禰とこの土地に縁の深い松の翁と白梅姫と其の一族を祀った宮で、社前の鏡の井は、今も昔を物語るかの様に其の名残をとどめている。 |
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