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| 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 天児屋根命(あめのこやねのみこと) 天太玉命(あめのふとだまのみこと) 猿田彦命(さるだひこのみこと) 鈿女命(うずめのみこと) 阿蘇彦命(あそひこのみこと) 阿蘇姫命(あそひめのみこと) 保食命(うけもちのみこと) 月読命(つくよみのみこと)
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| <由緒>(平成祭) 伝承による由緒 当神社の創建年代は不詳であるが、往古、宗形氏族が海路この地に来着して居を定め、その祖神である三女神を奉斎して、神社を創建したものと伝えられている。祭神御着船の地は、米子市長砂町小林(当時この辺りは入江であった。)であって祭神の御乗船はのちに石に化したと伝えられ、この所を御船塚と称していた。この船塚は、明治の末頃には、茅などの生えた100坪ほどの広い砂丘であったものが、昭和の始め頃には、田圃の中に、一抱えほどの石のある葦などの生い茂った、一坪ばかりの砂地として残されていたが、終戦後切り崩され、更に埋め立てて宅地とされ、今では何等昔をしのぶよすがもない。2.国史・文献による由緒 文徳実録ー平安朝初期の斎衡3年(856)に、宗形ノ神に神位従五位上が加上されたことが記されている。当時宗形神社は、大神山神社と供に、当地方の大社として上下の信仰が篤かった。延喜式ー醐醍天皇の延喜22年(922)に勅撰された、延喜式神祇の巻に、伯耆国の六社として、会見郡から、胸形神社と大神山神社の二社のみ国幣の小社として所載されている。神祇管領の勘文ー神祇管領ト部兼文が奏上した勘文に、宗形神社は伯耆国の第三鎮守である旨が記されている。以上の如く、宗形神社は平安朝の初期から国史に所載されており、千数百年の歴然たる歴史と伝統を有し、その御神威は赫々と当地を照らしつヽ今日に至っている。2.武将等の崇敬ー戦国時代になってからは、尼子・毛利・中村氏等の崇敬篤く、特に尼子晴久は、弘治2年に社地を宮ノ谷から現在地に移して社殿を建立し、社領300石を寄進・吉川元晴は、更に社領120石を加増寄進すると供に、太刀及び兜を奉納した。又中村伯耆守も社殿修造用材百本を寄進している。鳥取藩主池田氏は、当社を祈願所に指定し、祭礼には必ず幣使を参向させ、当時では、容易に許されなかった境内取締りの禁制の制札建設を、正徳五年に裁許し、池田家の家紋を幕・灯燈に使用することをも許された。更に池田慶徳候は、明治三年、自ら当社に参拝し、金百疋を献納するなど、武将や藩主の崇敬が極めて篤かった。
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