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| 社殿(2012/07/10) |
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| <稲荷神社(末廣稲荷神社)>(案内板) 平安時代の大同四年(西暦八〇九年)に倉稲魂神 (うかのみたまのかみ)を祀った、赤間最古の神社で、古来商家の崇敬が篤く、赤間関の繁栄と守護神として信仰されてきました。 神社の麓はもと稲荷町といって、日本の郭の発祥の地ともいわれております。下関は江戸時代初めの頃から北前船(千石船)の寄港地となり、西の浪速(大阪)と称されるほど繁栄していました。その隆盛と共に当地も栄え、数々の妓楼、名妓の名と共に稲荷町の名は全国に鳴り響いたものです。井原西鶴・十返舎一九・頼山陽など、古くから文人墨客が訪れていました。 また、高杉晋作の愛人おうのは、裏町堺屋の芸妓で、源氏名を「此の糸」、通称を「うの」といい、「三味線師匠」という身でした。 稲荷神社は、町の中心にあり、境内には末広稲荷さんの桜と称して大きな桜並木がありました。信仰と憩いの場でしたが、昭和二十年の空襲によりすべてを焼失し、繁栄の面影はとどめていません。 昭和二十八年に神社は復興されましたが、老朽化したため、多くの方の奉賛により、昭和六十一年十二月に、新社殿が朱色も鮮やかに造営され、再び厚く信仰されています。
<棟札>(案内板) 奉造立稲荷社一間四面一宇 右恙起者奉爲金輪聖王天長地久御願成就殊当 将軍御息安穏国土静謐、当社大宮司子孫繁栄寿命 長久(以下解読不明)大同四年丑九月吉祥日 右の古文書が伝えている通り当社は平安時代初期の大同四年(西暦八〇九年)に祀られた下関最古の稲荷神社で古来商家の崇敬篤く赤間関の繁栄の守護神として信仰されてきました。社の麓はもと稲荷町と言って日本の郭の発祥地とも言われております。数々の妓楼、名岐の名と共に稲荷町の名は全国に鳴り響いたものです。井原西鶴、十返舎一九、頼山陽など古くから文人墨客が訪れ幕末の志士、高杉晋作、伊藤博文、山縣有明、井上馨の夫人は当地の出身であり全国からの参拝者も多くありました。 往時は背後に稲荷山を控え境内には末広さんの桜と称して大きな桜並木があり信仰と憩いの場所でした。昭和二十年の空襲によりすべてを焼失し稲荷町の面影はきえておわりました。其の後昭和二十八年に復興されましたが近年社殿の打損がはげしくこの度たくさんの人々の奉賛によりまして昭和六十一年十二月二十日に新社殿が朱も鮮やかに造営されました。
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