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| JR常磐線「十王」駅→徒歩(43分) 常磐自動車道「日立北」IC→車(7分) |
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| 【縁起】<由緒版> その昔稚産霊命が、人皇第七代孝霊天皇の御代五年辛巳春二月初午の日に、蠶養浜東沖磯の上に御神影を現わされて、まことに貴いありがたい御神のお告げがありました。そこで当時の里人達は社を神路の森の、上子山に建てて、日本最初蠶養の祖神として敬い奉ってきました。その浦を豊浦の水門といい、尊神の現れなされた所を蠶養浜といいます。 第十二代景行天皇の御代四十年に日本武尊が、御東征の折に、上総から陸奥にお入りになられる時、御船を豊浦の港に繋ぎ蠶嶺の社に詣でて勝利を祈られました。三日三晩すぎて船で蝦夷の境に入られたところが、戦わないで蝦夷をことごとく平らげることができました。これは御神の助けによるものと思われます。日高見国より常陸を過ぎて甲斐に至りました。この時日本武尊は今の社地にうつしなされ、神領八十余郷を寄附奉るといいます。 元禄五年三月徳川光圀はこの社を当国式外三十五社に列せられました。 上にゆかりのある遺跡は経繰浦、穢詰磯、延磯、夫婦岩、舟嶋、蝶嶋、縄嶋など多くの旧名はありますが、今は総べて見分けることができません。 蠶養浜だけに出る神様の御心をくむ蠶生貝は、悪を除き穢れをはらい鼠を避けるといい伝えられているので、養蠶家はこれを蠶棚にかざると蠶にくせが入ることがないとして珍重しています。 〔社務所〕
【伝説金色姫物語】<説明版> 昔常陸國豊浦港(現在の川尻小貝浜)に繭の形をした丸木船が流れついたのを、この地に住む神官権太夫がみつけた。さっそく丸木船を割って見ると中から美しい姫があらわれたので、家に連れてきてわけを聞いた所「私はインドの大王の一人娘で金色姫と申しますが母は早くなくなって今の継母様は私をにくんで毎日ひどくいじめました。この様子を見兼ねた大王は桑の木で丸木船を作り宝石のような赤貝で作った首かざりを私の首にかけて舟に乗せ、慈悲深い人に助けられることを願って海に流しました」と泣きながら手を合わせました。身振りでそれと知った子供のない権太夫は、それから毎日我が子のようにやさしくいたわりそだててきましたが、五年たった今、姫は急に泣きながら「私の命も今宵限りとなりました。私の身は前世の宿縁で蚕という虫に生まれかわり蚕葉(こば)という桑の葉に養われて宝の繭をかけるまで四度の衣をぬぎすてますが、これは継母にいじめられたなやみの衣です。それから父母こいこいと泣きながら糸を吐いて作り、その繭の中にこの身を入れて葬るのです。よい繭を作るには蚕育て頃と庭起きがその良し悪しの瀬戸際です。この蚕貝作りの首かざりと繭は助けていただいた命の恩の置土産です。」と養蚕の業を教えて念仏と共に昇天した。これから日本に養蚕業が広まったと云う。これは蚕姫金色の物語で仏説蚕養の神の御由来である。 〔昭和五十一年十月 寄贈者 五浦観光ホテル別館大観荘〕
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