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| <鷗稲荷神社の由来>(由緒板) 今から約二百九十年前享保年間から天保年間にかけて江戸では三大飢饉が起り疫病、大火、洪水等があり人々は毎日の生活に苦しんでいた。当時どこの村でも神頼が始まり生活の安泰を祈った。 この稲荷神社は江戸時代の頃、弘化二年乙巳年三月吉祥日(鳥居に刻まれている)その頃に創立されたものと思われる。 祭神は宇迦之御魂命(食物を祭さどる神様) 当時、村人は、朝、夕とお参りをした。海上安全、大漁祈願、火伏の神様として多くの人々が参拝した。又、隣の厄神様は、厄除の神様として祭られている。 その頃の多摩川は、六郷川と呼ばれ鷗が多く群がっていた。その鷗につなんで鷗稲荷神社と名付けたと聞く。又、この辺は、徳川幕府の領内で六郷領であった。羽田は、六郷から東に向って上田、中村、西町、仲町、猟師町となっていた。仲町は、現在の横町町会、稲荷前町会、下仲町町会となっている。 その三町会の守護神として交代で守っている。 毎年初午祭にはお焚き火をたき、油揚げ、魚、小豆飯、等を供え、羽田囃子や初午太鼓で賑やかに執り行われている。 入口の鳥居は、安政の大地震、大正の関東大震災、太平洋戦争と、何たびかの困難を乗りこえて来た。本殿は太平洋戦争で焼失し今の本殿は戦後まもなく再建された。
<鷗稲荷神社>(標石) 羽田道は、旧東海道(三原通り)の内川橋際から分岐し、大森東・南、東糀谷を通って羽田(弁天橋)に至る。江戸時代には羽田弁財天等への参詣に利用され、また羽田でとれた魚などを江戸に運ぶ道でもあった。 鷗稲荷神社前は、羽田道の「羽田七曲り」の一つで、多摩川寄りの地域は漁業専業の「羽田猟師町」であった。この付近には鷗が多く、大漁の兆しとしてまつられたものという。 |
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