| |
| |
| |
| |
| |
| 拝殿(2011/04/20) |
|
| 天照大神(あまてらすおおみかみ) 春日神(かすがのかみ) 八幡神(やはたのかみ)
|
|
| |
| |
| 押上天祖神社は、明治五年十月元押上村の村社に列し祭日は九月十六日と定められて今日に及んでいる。その起因するところによれば、古く延元年間より祭ってあった。延元は建武の次で、南朝の忠臣楠正成公が湊川の合戦で戦死し、後醍醐天皇が吉野に行かれた頃で今から六百余年の昔に当る。 当時は押上と云ったかどうか分からないが、大昔は現在の東京の下町は海で、ところどころに島や浮洲があった。この辺は柳島と云われ早い時代に陸地となり人が住んだところとも伝えられている。其の後、花園天皇時代に神明社と称した。祭神は天照大神と八幡、春日両大神を祭ってある。 また一説には現在の京成橋附近で川が増水して堤防に押上げられてあった御神体を、当時附近の農民等が安置して祭ったとも云われている。その頃は下総国葛飾郡押上村で、其の後に武蔵国に編入され、明治五年村社に列する事となり、明治十一年の記録には、武蔵国葛飾郡押上村之内字居村向耕地、田八畝十八歩、この代金十六円八十銭、同村天祖神社、同所畑二十五歩、この代金二円五十銭と云う文献が残っている。 天祖神社は、呼名を朝日神明宮と云われた時代があったそうですが、其の時代は神仏の混交時代で、徳正寺と云う寺が管理していたのが、明治五年に行われた神仏分離により、神官のいない為か牛島神社の区域であり、本社は牛島神社で、押上天祖神社は其の末社と云う事になっている。 又大正十年に大祭が行われ、同十二年の関東大震災で社殿を焼失した。天祖神社はこの頃迄は平河橋四丁目地域にあったのが、後、昭和三年の区画整理で、現在地(業平二の十三の十三 )に替地になったのである。境内は二百七十二坪五合五勺、大空襲で焼失後社殿も再築されたが、昭和二十年三月の戦災で、又も焼失した。そして昭和二十七年度大祭の折、再び新築し、続いて昭和三十二年の大祭には鳥居が再建され、又玉垣、塀、水屋等も出来、神社としての形態がととのったのであります。尚、終戦後の宗教法人法による神社許可となっている。昭和三十七年境内には社務所、会館を設立すると共に、従前の六ヶ町の外に新たに旧業平橋一丁目と、旧向島押上町が加わり、八ヶ町の神社となっている。 現在の大神輿は明治二十一年五月五日に新調されたもので、今までに関東大震災と戦災で二度に渡る災害にあったが、現在の神輿庫が奇蹟的に焼失をまぬかれたので大神輿も当時のままの荘厳華麗な姿を残して居ります。(案内板より) |
|
| |
| |