徳之山稲荷神社

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タイプ
神社
名前
徳之山稲荷神社(とくのやまいなりじんじゃ)
別名
徳山稲荷(とくやまいなり)
漢字パターン
徳ノ山稲荷神社
所在地(住所)
東京都墨田区石原1-36-10
アクセス
都営大江戸線「両国」駅→徒歩(6分)
JR総武線「両国」駅→徒歩(10分)
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(2011/04/20)
主祭神
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
徳山五兵衛公(とくやまごへえこう)
主な行事
例祭(5月19日)
御由緒
御縁起
御神徳
歴史等
<日本左衛門首洗い井戸跡>
日本左衛門ハ本名ヲ浜島庄兵衛ト称シ侠骨剣豪ノ士トシテ時ノ悪代官ヲ斬リ遠州ヲ浪人シ江戸ニ出デ向島西方ニ居ヲ構ヘタ 幕府ハコノ罪ヲ以テ奉行ニ召捕リ方ヲ命ズ 彼ノ神出鬼没ニシテ剣豪ノタメ奉行ハ召捕方ヲ出来ズココニ幕府ハ本所築地奉行タル徳ノ山五兵衛ニ召捕方ヲ命ズ ソノ前ニ日本左衛門ハ再三徳ノ山邸ニ現レタガ黙殺放逐ス ソノ命ガ出テ向島ニテ捕ヘ ココニオイテ処刑サル時ニ寛文七年(西暦1667年)捕ワレタ時五兵衛ハ日本左衛門ニコノ世ニ思ヒ残スコトハナイカト問ワレ彼ハ只一ツ日光ヲ見タコトガナイト申シタノデ不憫ニ思ヒ又他の罪ノナイタメ地内ノ戸崎氏ニ連行ヲ命ジ内々デ日光見物ノ願ヒヲ叶エテヤッタ 無事ニ戻リソノ功ニヨリ戸崎氏ハ今ノ石原町一ノ一西側三百坪ヲ五兵衛ヨリ拝領シ現在戸崎家ノ子孫ハコノ地ノ地主トシテ今モ下北沢ニ住ム コノ碑ハ約三百年前由縁ノココに建立サレ大正大震災戦災等ノ災禍デ見ル影モナク損傷シ徳ノ山講員ハコノ史蹟ヲ後世ニ残スベクコノ石碑ヲ再建ス (説明碑より)

<徳山五兵衛屋敷跡>
江戸の初期に本所・深川の開発事業を推進した本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡です。
開府当寺の江戸は、明暦三年(一六五七)の大火をはじめ、たびたびの火災で大きな被害を受けたので、幕府は街区の整備を大規模に行うことにしました。ことに隅田川以東の開拓に着手することになり、竪川や横川などを掘り、その泥土で湿地を埋め立て、道路の整備と市街地の造成をしました。この事業のため万冶三年(一六六〇)に徳山五兵衛と山崎四郎左衛門の二人が初代の本所築地奉行として任命されました。
徳山五兵衛は功により、幕府からこのあたりに邸地を与えられました。この稲荷社は屋敷神としてまつられていましたが、五兵衛の死後、その徳を称えた人々により御霊が合祀され、徳之山稲荷神社として大切にされてきました。(案内板より)

<徳山五兵衛屋敷跡>
明暦の大火後、幕府は本格的な本所の開発に乗り出します。万冶三年(一六六〇)、本所築地奉行に任命された一人が徳山五兵衛(重政)です(もう一人が山崎四郎左衛門)。
堀割の開拓や湿地の埋め立て、道路整備と市街地の造成などで、今の本所の基礎を作り上げました。その功績により、この地に屋敷を賜りました。
五兵衛の死後、屋敷内に祀られていた稲荷と五兵衛の御霊が合祀され、徳山稲荷神社となっています。
また、孫の徳山五兵衛(秀榮)は、火付盗賊改方の在任中、歌舞伎の白波五人男の一人、日本駄衛門のモデルになった盗賊、日本左衛門らを捕えたことで有名です。(案内板より)
コメント
江戸時代初期に本所築地奉行として本所・深川の開発事業をした徳山五兵衛重政の屋敷跡に建てられた神社です。
拝殿方向
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[1/1] 入口 [2011/04/20]


  
[1/1] 一の鳥居 [2011/04/20]


  
[1/1] 社号標 [2011/04/20]


  
[1/1] 井戸跡 [2011/04/20]


  
[1/1] 参道 [2011/04/20]


  
[1/2] 手水舎 [2011/04/20]


  
[1/1] 鳥居2 [2011/04/20]


  
[1/6] 本殿 [2011/04/20]


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