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| 元徳稲荷神社は、河村徳右衛門氏が未だ三河岡崎に在った時、河村家の氏神様として、名匠に依頼して彫刻させ、伏見稲荷社より神璽を遷してお祀りしたのが始まりである。 徳川家康が江戸城を開いた折、河村氏も江戸に出府を命ぜられ、神田川沿岸に土地を賜り、町名を徳右衛門町と称した。その際、稲荷神社も江戸の邸内に移された。そして、二代目徳右衛門の妻女が、難性の腫物を患い稲荷神社に祈願して平癒した。それを聞いた町の人々が三々五々お参りし、平癒すると土地の産物である里芋を供えてお礼をした。 明暦三年(一六五七)江戸に大火(通称「振り袖火事」)があって、幕府は火災に強い町づくりを進め、このニュータウン計画により河村家は本所(立川三丁目付近)に移封され、この処を徳右衛門町と称して、稲荷神社も移祀した。しかし、その後も参拝する人が絶えず、多くの参拝の便を考え、屋敷内から三ノ橋畔に移祀した。 邸内にあった時は正一位稲荷大明神と称していたが、三ノ橋畔に移祀したのを機に元徳稲荷神社(元徳右衛門邸内にあったお稲荷さんの意)と改称した。近在に飛火という腫物の病が大流行した折、里芋を供えて平癒祈願したと伝えられている。後に明治の中期に活躍した九代目市川団十郎も腫物に苦しめられた時、当神社に参拝したと記録されている。(案内板より) |
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