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| <由緒>(平成祭) 祭神 帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)品陀和気命(ほむだわけのみこと)息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)。香川県のほぼ中央、高松空港に近く、日本一の夫婦大獅子(県指定有形民俗文化財)が出る祭りが賑わい、国の重要文化財『万葉集天治本』を所蔵することで有名な当神社は、通称冠尾神社(カムロさん)とよんで、古くから多くの信仰を集めております。御由緒 当社の創始については、貞観3年(861)智証大師円珍が国中を巡行して井原の荘月見原に至られたとき、松林の内に毎夜灯明があった。大師がたずねてそこにくると、白鬚の翁がいて「私は鳩峯大自在王菩薩である。私はこの地に鎮座して井原の民を護ろうと思う。師は幸いに私に協力されるよう」と言われた。そこで、大師は民から財を募り、祠を建てて法楽を営んだ。すると、一条の白気が東方から飛来して祠に入ったという。源平合戦のとき、平氏は武運を祈って当社へ馬具を奉納した。また、足利幕府の執事細川頼之は、延文2年(1357)この井原荘の岡の館に居を構えて守護を務めているが、頼之の母が石清水八幡に念じて頼之を生んだということもあって、京都石清水八幡宮の冠纓を請けて当社に奉納し、以後代々の細川家の祈願所となった。特に、貞治2年(1363)細川頼之は将軍義詮の命をうけて、伊予の河野氏討伐に戦勝を祈願して、大勝をあげたので、当社の神廟を造営し、神饌を捧げ、奉賽の祭りを行ったと伝えられている。細川頼之の誕生日が4月3日であるので、頼之の官名である右馬頭にちなんで、当社の春祭には右馬頭市という農具市が開かれ、当時社殿の荘厳さは国内第一と賛えられたと言われる。さらに、天文8年(1539)細川晴元が伊予を討ったときも、頼之の先例にならって戦勝を祈り、奉加帳を納め、総領司として社殿を再興した。それ以後、当国の領主は当社を崇敬し、天正15年(1587)生駒氏は社領を寄進し、高松藩主松平氏も3石7斗4升を寄せて奉賛している。なお、戦国時代より金創医術が当社の社家に伝えられ、最近までその金創膏の秘薬が伝世されていた。当社の祭司は、安倍氏、由佐氏、松井氏と、別当寺の宝蔵寺が勤めていたが、延宝3年(1687)石清尾八幡宮の祠官友安盛員の子盛房が、友安氏初代の神職となり、以来今日に至っている。明治初年郷社定則により郷社に列し、明治39年神餞弊帛供進社となり、さらに、大正7年県社に昇格して終戦を迎えた。 |
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