駒繋神社

パワスポコム  >  東京都  >  世田谷区 >  駒繋神社

タイプ
神社
名前
駒繋神社(こまつなぎじんじゃ)
別名パターン
子の明神
所在地(住所)
東京都世田谷区下馬4-27-26
周辺宿泊検索


検索距離範囲: 取得件数:
※駒繋神社を中心にして検索します。

公式サイト
https://www.komatunagi.jp/
主祭神
大国主命(おおくにぬしみこと)
御由緒
御縁起
御神徳
歴史等
<由緒>(平成祭)
昔より「子の神」「子の明神」または「駒繋神社」とも称えられていましたが明治以降は正式には「駒繋神社」と呼ばれるようになりました。しかし今でもなお昔の名称で「子の神」と広く呼ばれています。御祭神は大国主命(御別命、子の神、大物主命、大国玉命、大己貴命)であらせられる。命は素盞嗚尊の御子として古事記、日本書紀、出雲風土記、播磨風土記等によれば因幡の白兎、少彦名命との国作りの話、国譲りの物語でよく知られている神様であります。大国主命の御名の意味は「おお(大)な(土地)むち(霊)」即ち大きな土地の神護神、国土の主領神を意味しています。従って古来国津神の代表とされ皇室は勿論、国民一般の尊崇きわめて篤く島根県の出雲大社、奈良県の大神神社その他各地でお祀りしています。命は慈悲深く武勇優れ給うたので天下を経営し人々に療病に方を教えられるのは勿論、殖産興業、畜産の奨励など広く国民の福利増進に専念された御神徳すこぶるあらたかな神様であります。今から約900年程の昔、平安時代後期、御冷泉天皇の天喜4年4月(1056)源義家が父頼義と共に朝廷の命を受け奥州の安倍氏征討(前9年の役)に向う途中、この地を通過するに際し子の神に武運を祈ったと伝えられているから少くともこれより以前には里人たちによって出雲大社の御分霊を勧請し守護神として祀った事はあきらかであります。降って文治5年7月(1189)源頼朝が奥州の藤原泰衡征伐のため自ら大軍を率いて鎌倉を発し世田谷郷のこの地に至ったとき往時義家が子の神に参拝せしを回想し、愛馬芦毛より降り駒を繋いで参拝した。―この事あって以来頼朝が鎌倉に幕府を開き威勢の盛んなるに従って子の神を駒繋神社とも称するようになったと伝えられている。―頼朝はそれより乗馬し発進しようとしたが当神社前より駒留八幡神社(世田谷区上馬)までは一面のぬかるみであったので下馬しこの間を徒歩で渡りそれより乗馬(上馬)した。後世この故事にちなみ駒繋神社附近一帯を下馬といい、駒留八幡神社の地を上馬と呼んで現在に至っている。右は主として社伝に依ったのであるが、古老の伝承及び江戸名所図絵、新編武蔵風土記、最近刊行された世田谷区誌等によってこの地の沿革を23記せば次の如くである。文治年間頼朝が奥州征伐の時、荏原町より芦毛の馬を撰んで子の神に奉納しようとしてこの地に牽いだが躓いて倒れたので止めたと伝え、或はまた頼朝がこの地に狩りに来た時愛馬が頗りに驚き誤って沢に落ちて死んでしまった。そこで塚を築きこれを足毛塚と呼んだとも伝えている。―この塚は神社の近くに現存している。―世田谷区誌によれば駒繋神社はもと子の神といった。この境内に1本の松がありそれを駒繋松という。源頼朝が馬を牽いて此処を通る時、馬を繋いだ松だと伝えている。それ故今は神社にも其の名がある。と記し新編武蔵風土記は「子の神の境内は5反(1500坪)下馬引沢の内小名子の神丸にありその所の鎮守なり、此社の鎮座の年歴を詳にせず、本社9尺に2間、拝殿二間に3間社地の入口に柱間8尺の鳥居を建てこれより石段25を経て社前に至る。又本社の未の方にも同じ鳥居を1基たてる」とある。以上は社伝或は種々の著書、古老の伝承等を参照し記したのでありますが、これらを総合致しますと子の神(駒繋神社)は東京では名社の1つであった事がよくわかると思います。現在氏子区域は下馬1丁目~6丁目でありましてその世帯数は約1万件以上あり、年々増加しつゝあります。

 ←印刷はここで出来ます。
★Gppgleマップで開く / ★Bingマップで開く / ★Yahooマップで開く


お天気