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| 経津主命(ふつぬしのみこと) 金山昆古神(かなやまひこのかみ) 金山昆賣神(かなやまひめのかみ)
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| 人皇十代崇神天皇の第一皇子豊城入彦命が東国統治の命を奉じ、この地方に下降した際、宮之辺の地に経津主命を祭祀して武運長久を祈ったのが、総社神社の始まりと伝えられております。 その後、九十六代後醍醐天皇のとき、元弘の乱で北条氏が滅び建武中興の世となりました。 足利直義は戦功により関八州とそれに付属する伊豆、甲斐、越後の国の行政権を与えられ、天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入部しました。 家臣「長尾佐衛門尉景忠」は上野越後守護代となり、四男忠房は上野国府の地を給わりました。 忠房は国府を城郭化し蒼海城と称し、宮之辺の地より総社神社を現在地へ移したようです。 神社裏の貞和五年(一三四九)の宝塔も長尾氏一族の建立したものであろうと群馬県人名大辞典に書かれています。 長享二年(一四八八)九月二十八日、僧の万里集九が角淵(玉村)より白井へ向かう途中、国分寺跡あたりから見た展望を日記に「隔一村馬上望拝上野之総社」(一村を隔てて馬上より上野総社を拝す)とあります。 また。古総社(現宮鍋神社)の前を通過する折に「数株老樹斧屑残」(数株の老樹に斧の傷跡を残す)とあり、これらの日記から察するに永禄九年(一五六六)頃、武田軍と長尾軍の合戦により焼失した惣社神社は、宮之辺の地ではなく現在地であろうと思います。 次に宮鍋は宮之辺が変化したのではなく、惣社神社移転の跡地の東傍らの屋敷(二〇四一、二〇四二番地)に鋳物を業とする人々が定住して、経津主命に鋳物師が崇敬する製鉄の神、金山昆古神、金山昆賣神を合祀して「宮鍋神社」と称したのであろうと思います。 鍋という字は、他県の鋳物師の氏神には数多く使われている様です。 前記二屋敷跡より多くの鋳物屑が発見されております。 明治三十年十月に木造鳥居の建立記録が殿小路町にあり、大正八年四月十六日総社神社に合併されましたが、昭和6年十二月一日県の指示により、再び宮之辺の地に移転となりました。 当社は今なお「宮鍋様」と称して、殿小路町、粟島町の崇敬の社であります。 以上の事項は、各種記録、史料、伝説、考古学者の研究資料等に基づき記載したものであります。 |
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