蒲生神社

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タイプ
神社
名前
蒲生神社(がもうじんじゃ)
別名パターン
蒲生崎神社
所在地(住所)
鹿児島県奄美市笠利町大字屋仁
標高
128m
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主祭神
蒲生左衛門(がもうさえもん)
御由緒
御縁起
御神徳
歴史等
<蒲生神社の由来記>(由緒碑)
この蒲生神社は、寿永四年三月一五日(一一八五年)の暮、今を去る七九一年前壇の浦の戦に敗れた平氏は一族郎党主従三百余人、三位中将資盛を征夷大将軍として四国西岸から九州東岸沿いに南下し喜界島を経て建仁二年(一二〇二年) 七七四年前、有盛・行盛の二将がはるばる彼の跡を追って来たのに会った。そこで空しく月日を送るのも心もとなく思い、近くに横たわる大島の攻略を思い立ち資盛、有盛、行盛は三手に分かれ大島に攻め入った。大島に攻め入って六旬(五十余日)をかけて全島を平定した。三大将は島内を三分して資盛は島の西南部、東間切、西間切、屋喜内間切を領有し諸鈍に居城を構え全軍を総管し、有盛は島の北部、笠利間切、名瀬間切を領して、浦上に居城を構え北部を警備し、行盛は島の東部、古見間切、住用間切を領して居城を戸口に築き東南を警戒し、その管内にそれぞれ兵を駐めて守備に当たった。其処で行盛卿は笠利湾の入口をはさんで相対する右手の屋仁崎には蒲生左衛門を、左手の安木場には今井権太夫を配して近海を監視させ、敵の来襲に備え、七日目毎に海上の様子を注進させた。そして源氏の旗印と見まちがうことを恐れ漁船その他、島内全ての船に白帆を用うることを禁じた。その後いつの頃からか屋仁崎、今井崎は二人の遠見番の名に因んで蒲生崎、今井崎とよばれるようになった。蒲生神社は遠見番であった蒲生左衛門を祭神として建てられているが、果たしていつの時代に建設されたのか、何んの記録も残っていない。しかし源平時代使用されたと思われるもの、或は宝物として残されていることから考えて蒲生左衛門その人が没後その住居を神社らしいものに改造したのではないかと思われると、古老は語っている。御神体の大鏡(約一五糎)は文化三年(一八〇六年) 一七〇年前ニャテラガナシの神体は天保九年(一八三八年) 一三八年前に奉納されたのである。近代社会に至り明治大正昭和と日清日露の戦役、日支事変、大東亜戦争に至る迄町内郡内郡外から出征兵士の武運長久を祈願し多くの人々が参拝された神社である。なおニャテラガナシの御神体も合祀され縁結びの神であり、お産の神として安産を祈り、海抜四〇米の地に鎮まります神社であり現代でも参拝者の絶えることのない尊い神社であります。
〔昭和五十二年十月二十一日 旧九月九日 吉田吉瑩記 大野巖謹書〕

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