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| JR紀勢本線「和歌山市駅」→徒歩(27分) JR紀勢本線「和歌山駅」→徒歩(30分) JR紀勢本線「田中口駅」→徒歩(30分) |
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| 道臣命(みちのおみのみこと) 大伴佐氐比古命(おおともさでひこのみこと)
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| 例大祭(春祭)(3月17日) 例大祭(秋祭)(10月17日) 新嘗祭(感謝祭)(11月23日)
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| <延喜式内社 和歌山城鎮護 吉宗公拾い親 刺田比古神社>(由緒板) 当神社は岡の里(現在の和歌山市広瀬、大新、番丁、吹上、芦原、新南地区)の氏神様である。神武御東征の際に活躍した道臣命、百済救済の武功で知られる佐氐比古命をお祀りしている。古来よりこの地は人が住み、境内には岡の里古墳がある。道臣命は岡の里の出身とされ、佐氐比古命二十世の裔大伴武持が大伴氏の発祥であるこの地に祖神、祖霊を祭祀し、里人はその神徳を仰ぎ産土神として崇敬した。南北朝の騒乱により荒廃するも嘉吉年中に氏子等が修造した。元和年中德川頼宣公が紀州入城の際、城の守護神たるこの神社を崇敬社殿を修築し社宝を奉献し更に領地を寄進した。二代城主光貞公以後は産土神として崇敬を受け、殊に八代将軍吉宗公御誕生の時、神主岡本周防守長諄が仮親となり特別に崇敬をうけた。吉宗公は将軍就任に際し開運出世の神と崇敬され、享保年中二百石の朱印地を寄付し、神社境内の殺生を禁じ、黄金装飾の太刀壱振(国宝)、神馬一頭を献じ、永く国家安泰の祈願社として年に壱万度の祓を命ぜられ、神主岡本長刻より代代三年に一度将軍に拝謁した。よって氏子の崇敬益々厚く、明治六年四月に県社に列せられた。昭和二十年七月九日の戦災に御神霊のみ安泰、社殿、宝物、古記録すべて焼失した。その後氏子等の敬神により現在の復興となった。
<由緒>(平成祭) 刺田比古神社は延喜式神名帳、紀伊国神名帳等に記載された古社で、岡(広瀬・芦原・大新・番丁・新南・吹上)の産土神で岡の宮で知られ、和歌山城鎮護の神社でもあり、八代将軍吉宗公の仮親として出世、開運の神社として有名。古昔道臣命10世の孫刺氏比古命より世々岡の里を采邑し、刺氏比古命20世の裔大伴武持がこの地に住むに及んで、此の祖神との神霊を岡の里に斎祀し、この地を開始経営給いし神として里人等其の神徳を仰ぎ産土神とし、国主の神、大国主神と尊崇した。大伴武持28世の孫、岡本信濃守武秀始めて城を岡山に築き、世々之に住居し、最も厚く崇敬した。天正年中、豊臣秀吉和歌山城を築くのに本城鎮護の神社として大伴の後裔岡本左介を社司とした。又、秀長、城代・桑山修理亮重晴に修造させ、岡本左馬助家長を神官とした。更に文禄3年、神社を聖武天皇の岡の離宮の跡の現地に移した。元和年中、徳川南龍公本国に入り最も厚く崇尊し社殿を修復し、清淫公始め産土神なるにより寛永年中より延宝年中、大小社殿を造営し松生院の別当職を除き唯一神社とした。吉宗公八代将軍に登閣するや、当社は公の産土神として周防守長諄は誕生の時の仮親となったので特別の崇敬を尽くし、開運出世の神と敬神し、享保年中常府より名草郡田尻村にて二百石の朱印地を寄付し、神社境内の殺生を禁じ、黄金粧飾の太刀壱振(国宝)神馬1頭を献じ、永く国家安泰の祈願社とし1万度の祓を命ぜられ、神主岡本長刻より代々3年に1回上東し、将軍に謁し、後、代替・継目等、江戸に下りて拝謁するならわしとした。よって社殿悉く整い、氏子の尊信益々厚く、神徳弥栄にて明治6年4月、県社に列せられた。
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