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| 翠滝(2011/06/19) |
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| <兼六園>(掲示板) 兼六園は、江戸時代の代表的な林泉回遊式大庭園の特徴をそのまま今日まで残している。もともとは、金沢城の外郭として城に属した外庭で、延宝4年(1676年)五代藩主綱紀が蓮池亭を造り、その庭を蓮池庭と呼んだのが始まりと伝えられている。その後十二代藩主斉広が東南平坦地千歳台に竹沢御殿を造営し、その間、新たに庭を造り蓮池庭との障壁を除き、蓮池、辰巳、山崎等35門を建てた。十三代藩主斉泰は、天保8年(1837年)霞ヶ池を堀り広げて増庭し、今に見る兼六園はこのときできたもので、その構図の雄大さと技術の優秀さは、他の追随を許さぬものである。
<沿革>(パンフレット) 兼六園は江戸時代の代表的な林泉回遊式大庭園の特徴をそのまま今に残している。 もともと兼六園は金沢城の外郭として城に属した庭であった。 庭としての歴史は、城に面した傾斜地が古い。加賀藩5代藩主・前田綱紀が1676(延宝4)年、この地にあった作事所を城内に移し、蓮池御亭を建て、その周辺を作庭した。これが本園の始まりで、当時、蓮池庭などと呼ばれていた。 1759(宝暦9)年の金沢大火で、蓮池庭も大半が焼失した。11代藩主・治脩は復興に取り組み、1774(安永3)年に今にみる夕顔亭や翠滝を築造している。 一方、東南の平坦地である千歳台・一帯は、7人の家臣の屋敷があったり、藩校が建てられるなどの変遷があったが、1822(文政5)年に なりながは12代藩主・斉広の豪壮な隠居所一竹沢御殿が完成している。その庭には辰巳用水を取り入れて曲水をつくり、各種の石橋を架けた。竹沢御殿の完成した年に、斉広は奥州白河藩主・白河楽翁に庭園の命名を依頼した。楽翁は中国宋の時代の詩人・李格非の書いた洛陽名園記の文中から採って、宏大・幽遼・人力・蒼古・水泉・眺望の六勝を兼備するという意味で「兼六園」と命名した。 竹沢御殿完成後、わずか2年で斉広は死去した。同御殿を取り壊した13代藩主・斉泰は、霞ヶ池を掘り広げ、曲水の新たな取り入れも行い、以前からあった蓮池庭と調和するよう作庭した。 こうして、今にみる雄大な回遊式庭園の基本的な構図はできあがった。 廃藩後、1874(明治7)年5月7日、兼六園は一般開放された。1922(大正11)年3月8日に「史跡名勝天然記念物保存法」の規定により、"名勝。の指定を受けた兼六園は1950(昭和25)年、現「文化財保護法」により、改めて"名勝.の指定を受けた。 さらに、1985(昭和60)年3月20日、"特別名勝.となった。
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