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| 歴史 箕輪城は、明応、永正年間(一四九二~一五二一)に長野尚業[ひさなり](業尚)が築城し、 子憲業[のりなり]、孫業政[なりまさ]により強化された。 長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世に、 あくまでも関東管領山之内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。 特に、長野信濃守業政は、弘治年間(一五五五~八)から数回に及ぶ 信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦い抜いたすぐれた戦術と領民のために尽くした善政により、 名城主として長く語り継がれている。 業政の死後、子業盛[なりもり](氏業・うじなり)は父の遺志を守り将兵一体となってよく戦ったが頼む諸将は次々と武田の手に落ち、 永禄九(一五六六)年九月二十九日、さしもの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至った。城主業盛は 春風にうめも桜も散りはてて名のみぞ残る箕輪の山里 という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。長野氏の在城は六十余年である。 武田氏の時代は天正十(一五八二)年、その滅亡によって終わり、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、 信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。 天正十八(一五九〇)年、北条氏滅亡後徳川家康は重臣伊井直政を十二万石でここに封して関東西北の固めとし、城下町も整備した。 その後、慶長三(一五七八)年直政が城を高崎に移し、箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。 構造 箕輪城跡の標高は二百七十メートル、面積は四十七ヘクタールに及ぶ丘城(一部平城)である。 西は榛名白川の断崖に臨み、南は榛名沼、東と北とは水掘を回らして守りを固めている。 城は深さ十数メートルに及ぶ大堀切で南北に二分され、 さらに西北から東南の中心線に沿って深く広い空堀に隔てられた多くの郭が配置されている。 御前曲輪で発見された井戸をはじめとする多くの井戸や発戸堰用水によって城の用水は完備していた。 殊に法峯寺郭は、江戸時代の兵書「手鑑」にも引用されているほどにすぐれた用水である。 六ヵ所の「馬出し」や、櫓あとの石垣をはじめ各所に半ば埋もれた石垣も残されている。 (案内板より) |
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