| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| <由緒>(平成祭) 当社の名が世に知られるに至ったのは、文献上では延喜式神名帳を以て初見とする。延喜式神名帳というのは、平安朝の中期、醍醐天皇の延長5年(927)に撰進されたものであるから、今日から1030年程前のものである。それに神社名の載っているということは、これが1000年以上の古社であることを示すもので、当社も従って1030余年以前には、既に存在していたと言える。延喜式の制度に従えば、当社は当時、国幣の小社とされ、尾張国司から幣帛を奉られる名社とされていた。鎌倉時代には尾張国神明帳に「従三位漆部天神」と称され、神格の高い神として尊崇され、引き続いて、同国司の幣帛を受けた。然るに南北朝時代以降、戦国時代にかけて、当地方は戦乱の巷となり、このとき当社も戦火にかかり、社名さへも忘れられるに至った。そのため、室町時代以降は、八大明神社と称され、その維持の計られたことは、現在も当社に残る明応7年(1498)8月23日の墨書銘によって、明らかである。その後のことは、元和6年(1620)5月25日の棟札が残っているので、このとき社殿の造替が行われたことがわかり、その後引きつゞく修造を経て、今日に至っている。江戸時代には尾張藩は、当社に20石の祭祀料を寄進して崇敬し、明治維新後は、同40年10月26日、指定郷社の社格が与えられた。氏子は先祖以来の氏神として、厚く奉斎、その維持に当たっている。昭和32年10月21日に至り、その社名を旧来の漆部神社に復した。御祭神と御神徳 当社の御祭神三見宿祢命は漆部の祖神である。漆部というのは、今の言葉で言えば漆を栽培、採取し、それによって漆器具を製作する工業団体をいったものである。日本で漆器、塗物のことの世に知られるに至った初めは、上代のことで、日本書紀用明天皇2年(587)の條に、大和国で漆器工業に従事するものに「漆部造兄」というものの名が見えるのを初見とする。今日から1370余年程前のことである。次いで同紀天武天皇の條にも、大和国に「漆部友背」というものの名が見えている。当時は大陸の文明が、朝鮮を経て、日本に輸入されていたときなのであるから、新しい漆塗の技術の輸入に伴って、その技術者団体が、我が国でも発生していた様が知られる。奈良時代に至ると、播磨国風土記や出雲国風土記を見ると、これらの国に漆の樹の生じていることが、珍らしい事実として記載されている。平安時代には越後国磐船郡に漆の生ずる山があり、そこに漆山神社が存在していた。これも延喜式内社となっているから、古社の1つだと言える。右によれば、漆塗に関する古い神社としては、日本には当社と漆部神社との存することが知られる。但しここで注意すべきは、右二社にはその御神徳の性質に相違のあることである。即ち漆部神社という方は、漆の樹の守護神である。これに対し、当社の漆山神社という方は、漆器、塗料の技術並びに同工芸の作製、頒布に関係する団体の守護神になる。ここに当社が漆器工芸の諸団体組合の祖神であり、守護神とされる基本的な神格を見出し得る。この漆器工芸団体が古語でいう「漆部」で、その祖神が三見宿祢命という神に当る。この神は平安時代に編簒された先代旧事本紀という書物の巻五、天孫本紀の條によると、「漆部連の祖」とあるので、この神が漆器工芸団体の祖神であったこと、明らかである。この神は尾張国を開拓した天火明命(一名を饒速日尊という)の五世の孫で、天火明命の子孫が大和国から尾張国に移住すると共に、同国海部郡に移って、漆器工芸の技術の普及に従い、現在の他にその祖神を祭ったのが、漆部神社である。当社に隣接する甚目寺を創設した「甚目連公」というのも、その一族である。漆部神社はその氏神、甚目寺はその氏寺とされ、共にその氏人、氏子によって崇敬されたのである。甚目寺御本尊の御前立である十一面観世音菩薩象が尾張国唯一の乾漆像であることは、この寺が漆部の神と深い関係あることを示す有力な証拠とされる。当社には漆部の祖神たる三見宿祢命を奉斎する外、古来の由緒によって、同殿に木花咲耶姫命と八大明神との祭っている。木花咲耶姫命というのは、桜の花の如き優に柔しい婦徳を授けられる神で、慈悲円満の女性の守護神である。又八大明神というのは、世上一般の信仰を集めている賀茂、春日、祇園、稲荷、住吉、松尾、平野、貴船の八社を指し、その御神徳は、広く各地方面に亘っている。以上これをまとめていえば、当社の御神徳は漆器、塗料に関する工芸守護の神たることを根本の御神徳とするものであるが、同時に農商工の産業開発に、又諸徳円満の神徳をもたらす神として、末永く仰がれるものである。
|
|
| |