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| JR「東二見駅」→徒歩(6分) 第二明神道路「明石西IC」→車(10分) |
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| 春祭(3月25日) 夏祭(7月25日) 秋祭(10月第3土曜日)
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| <由緒>(平成祭) 往年の火災により、社殿と共に記録文書を焼失し創立の年月は不詳。社伝によると、神功皇后の西征の際、この二見浦に船を泊めて船子を加え兵糧を集めた時、土地の者が食物を奉ったところという。その故事によって御厨(神饌を調進する所)の名が起こった・・。だが、この御厨という言葉は、主として伊勢神宮について使用されることから、伊勢神宮の荘園ではなかったかとの説もある。貞観年間(859年~877)に八幡宮を勧請。延喜元年(901)菅原道真が筑紫太宰府に左遷されて西行の途次、船をこの浦に寄せて社地に上陸した所縁により、寛和年中(985年~987)に天満宮を勧請。この当時の社地は君貢神社(二見町二見一)附近と伝え、菅原道真が西下の時、一夜の宿とした岡を仮寝の岡といい、そこに手植えした松を仮寝の松として神木とされ、二見の名所であった。松は枯れたが、石碑は残っている。しかし、菅公が休息したのは現在の社地であるという説もあり、鳥居の傍の松に菅公腰掛松というものがあったといい、また菅公が右大臣であったところから、大臣の唐名・丞相谷は現在地の南方にある。以上の説はともかく、現在地が卯ノ花ノ森に移ったのは長暦年間(1037年~1040)と伝えられる。卯ノ花ノ森は常盤木の森ともいい、附近一帯を御社と呼ぶ。土地柄から船頭や回船業者など海運関係者の崇敬が厚く、拝殿内に帆前船の絵馬と模型が奉納されている。 |
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