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|  拝殿(2011/06/19) |
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| <由緒>(平成祭) 石浦神社と慈光院 金沢市内で最も広大な地域の氏子を持つ石浦神社は大山咋命(日吉山王大神)市姫神、白山比咩大神、天照皇大神、応神天皇、大巳貴命(大国主命)春日神を祀り、古くから石浦郷内7カ村の産土神として石浦山王または地主権現と称せられ、村民から深く尊信されていた。石浦郷7カ村は石浦村、笠舞村保島村、朱免野村、木新保村、今市村、山崎村で、それらがみな氏子であったから、今の武蔵ケ辻近くから犀川の左岸に至るまでの広大な地域が含まれていた。当時の社地は今の長町1丁目で江戸時代には加賀藩士、浅香、由比両氏ら邸地となり、社の移転後永らく雑木が生い茂っていた。室町時代にはここに大きな神殿があり、参拝者が多かったが、天正8年(1580)佐久間玄藩盛政が一向一揆の一大拠点である金沢御坊を攻めた時、このあたりが激戦地となり、住民の家屋も神社も共に兵火にかかって烏有に帰し古記録は全部焼失した。このため神社の由来、縁起等の資料はなくなってしまった。誠に惜しいことである。しかしご神体は氏子らが奉体して山中に避難していたが、戦がおさまって平和になると金沢に奉遷したが、なお神祠仏堂の再興することができず、石浦村の民家に安置していた。その頃は神仏習合で御神体と仏像とを合せ祀っていたが仏像は本地仏と称えられ、有名な十一面観音であった。天正10年(1582)真言僧不動坊の請求によってこの観音像を彼僧にあずけて守護させたが、その後、木新保村、小立野、卯辰山等に次々と移転した。一方、石浦山王の氏子らは前田利家が金沢へ入城してから既に10数年たち、世が平和になったので社を再建しようと思ったが、旧社地は藩士の邸地になっていたので慶長7年(1502)3月、上石浦村の地内にあった石浦砦の旧跡に社殿を再興した。それは今の本多町3丁目にある本多氏の下邸内であった。この石浦砦は石浦城ともよび、戦国の頃、一向一揆の首領の一人石浦主人がここに拠ったが、米泉にいた須崎兵庫に攻められて亡ぼされた。この地は背後は崖で、前には広い霞が池があって、要害の場所であったから、これを修理して天正の初頃、一向一揆の首領の一人山本若狭守家芸が城主となっていた。その女が前田利家の側室となり、利孝の母となったのである。氏子らは慶長11年春、石浦山王の社地に観音堂を造営し、その年9月、卯辰山より観音を奉遷した。この寺を石浦山長谷寺と称した。これから後、この寺の僧が永らく石浦の神を奉斎したのである。寛永18年(1641)本多政重が祠殿を造営したので神殿は豪壮なものになった。また奉仕している石浦山長谷寺は長谷山慈光院と改めた。これは天平の昔鎮祭の折、天空に慈雲放光のめでたい光景が現出されたと伝えられる由緒によったもので、これから明治初年まで金沢市民は慈光院とよんでいたのである。子供らはこれをなまって「ジクインサン」とよび祭の日に雨が降り続くと「ジクジク祭り」といって淋しい顔をしていたものである。この建物は神仏一体の社として深く人々に信仰され、参拝者も非常に多かった。宝暦9年(1759)4月、金沢は大火になり、大部分が焼失するという災害にあい、この社も全焼したので、文政元年(1830)再造した。ところが嘉永元年(1848)9月暴風雨のため、崖くずれ社殿が崩壊したので、明治元年4月再建した。明治になってから神仏分離が実現され、社僧慈光院盛雅が復飾して長谷氏と称し、神官としてこの神社に奉仕することになった。また慈光院の本尊である十一面観音は小立野宝幢寺へ移されたが、後寺が百姓町(現幸町)に転地して今もそこに安置してある。また前立の観音は大乗寺坂下の長谷院に移された。これまでの山王地主権現の称を廃して石浦神社というようになったが、金沢市民は永く親しんできた慈光院の名を呼ぶものが多い。明治13年、今の地に移ったが、建物は昔の面影を残して拝殿は寺院の様式であり、右方の車寄も唐破風造りの優美な構造になっている。終戦後、この社の近くにあった軍政隊の米兵が、賑やかな祭礼に驚いていたが、その後、年々この社の参拝者がふえていて、信仰の厚いことを物語っている。
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