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|  拝殿(2014/04/04) |
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| 日本武尊(やまとたけるのみこと)<白鳥大神宮> 両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)<倭京宮> 橘姫命(たちばなひめのみこと)<吾嬬宮>
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| 春祭(5月4日から3日間) 秋祭(10月6日から3日間)
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| <白鳥神社>(由緒板) 昔、日本武尊が、伊勢の能褒野に崩御せられ、尊の霊は白鳥と化し、大和の国琴弾原より河内の旧市に飛び、更に讃岐の国白鳥の郷に止まった。仁徳天皇の御代に初めて神廟を造営して、白鳥大神宮と言祝ぎ、その後、寛文四年高松藩祖松平頼重公が、この社殿修築に力を注いだ。明治五年県社に列せられる。
<白鳥神社>(由緒看板) その昔、日本武尊は九州そして東国を征定しての帰途、伊勢の能ぼ野で亡くなられた。天皇は尊を厚く葬られたが、尊の神霊は白鶴となり西方に飛び立ちこの大内郡鶴内の里に飛来された。この地に社を建てられ様々な人々の祈願がなされ、百に一度の霊験なきことがなかった。中でも源義経が兵力の劣勢の折に、白鳥の神に祈ったところ、彼方の空から白羽が彼の手中に舞い降り、義経は気して兵を挙げ、屋島の浦の戦いに大勝したという話は有名で、白鳥神社が開運厄除の神様として奉られる由縁である。
<由緒>(平成祭) 日本武尊は人皇十二代 景行天皇の皇子に在らせられ、勅命に依りて九州中国を、其の後東国を征定し給ひ還啓の途次、近江国伊吹山にて癘病に触れさせ給ひ尾張国を経て伊勢国能褒野に至り病篤く、遂に薨じ給ふ。御年30、実に、景行天皇41年なり、天皇其の功を録し武部を定め群臣に命じ其の地に山稜を造り厚く葬り給ふ、群臣入棺し奉りしに、神霊白鶴に化し西方に飛び去る、棺内には只衣冠のみ空く在す、其の白鶴は大和国琴弾原に、又飛て河内国旧市の邑に至り亦更に飛て讃岐国大内郡鶴内の里に止り給ふ依て此の所に神陵を建てさせ給ふ。成務天皇の御宇、天皇の御兄弟神櫛王をして日本武尊の御子、武鼓王に従随せしめ給ひ讃岐の国造に封じ神陵を監せしめ給ふ。(武鼓王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり)日本武尊の御子 仲哀天皇の御宇神籬を建て封戸を寄せらる。今の神社即ち其の御跡なり。爾後一盛一衰ありしも武家は弓矢の神と為し崇敬深かりき。寛文4年讃岐守高松藩祖松平頼重侯大に其の規模を拡め、社殿の修築をなし、領地を割き神領に寄し、幕府の朱印地に改めたり。明治五年県社に列せられ現在に及べり。 |
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