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| 永福稲荷神社[八王子](えいふくいなりじんじゃ[はちおうじ]) |
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| <永福稲荷神社と力士八光山権吾郎由緒略記> 永福稲荷神社 永福稲荷神社は八王子市新町の鎮守で祭神は倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)です。古くはこのあたり一帯は竹の鼻と呼ばれていたところから、竹の鼻稲荷神社とも言われていました。厄除け、開運、出世、勝運、商売繁盛、心願成就、縁結び、家内安全、交通安全など、霊験あらたかな神様です。 宝暦六年八月二日(千七百五十六年)力士八光山権五郎が再建し落成と同日に相撲を奉納したといわれています。江戸時代甲州街道八王子宿の入りロに位置しているために、江戸からの往来客による信仰が厚く寄進された鳥居、天水桶等が境内に現存されています。 例祭は「しょうが祭」と呼ばれ毎年九月第一土曜日に執り行われます。当日神社で軍配(勝)御守札を授与します。縁起物として「しょうが」が売られます。」
力士八光山権吾郎 八光山権五郎は江戸時代中期(寛延、宝暦)に活躍した八王子出身の力士です。身長六尺三寸(百九十一センチ)体重不詳、嶋屋という絹問屋の後継ぎで商売をしながら相撲をとっていました。当時は大坂、京都で勧進相撲が盛んに行われていました。現在のように相撲協会はなく、相撲が開かれる場所へ自前で出かけて行き日本各地の力自慢腕自慢が、日本を東西に分けて地元出身地を背負って対戦しました。その時の番付には八光山の出身地は「江戸」とのっています。八光山は八王子から相撲が開かれる場所へ旅立つ前には、必ず稲荷神社へ参拝し旅の安全と必勝を祈願し亦帰郷した折にも境内で勧進相撲を奉納しました。当時の力士は現在の力士が締めている半分位の丈で出来ている化粧回しを締めたままで柑撲をとりました。 相撲は神事と深いかかわりがあることから、五穀守護の神「倉稲魂命」の神前で願いを込めて相撲を奉納したものとおもわれます。八王子史実を著してある塩野適斎の桑都日記には、八光山権五郎が神明の霊徳によって天下第一の力士になれば、神祠を再造して永くこの所において相撲を興行し神を祭ると祈誓し、故郷を辞し去って三都及び四国九州を遊歴し、強くカのある者に逢えば相撲を試み、遂には敵する者が無く、これを賞され時の天皇から御盃と錦のまわしを賜り、帰郷後稲荷神社境内で相撲を興行したと記録されています。 力士八光山権五郎が六十二歳で没した後、毎年八月二日には近郷の力自慢によって相撲が奉納されるようになりました。 (案内板より) |
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