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| <由緒>(平成祭) 今より遡る事250年の昔、此の辺りは海辺にして豊葦原のその名の如く、葦の葉繁る干潟にして、江戸中の塵芥を以って築地となし、10万坪築地と申されたり。享保年間(1720)近江の国(滋賀県)の人千田庄兵衛氏が此の地に来り、時の幕府徳川八代将軍吉宗に願い出て、此の土地を開拓せんと三ヶ年の長きを費して村造りを固めなし、其の氏を取って武蔵国南葛飾郡千田新田と名付けられる。後に寛政九年村全体が一橋家の領地と成ったので、一橋領10万坪とも称したり。当神社は、その当時小さな祠であったが、千田庄兵衛氏は敬神の念厚く、社殿を造り千田神社と称し土地の産土神として崇拝される。たまたま田畑に穀物の実らざるを歎き、当神社にご祈願を篭め神霊のお告げを受けて、これに代うるに片栗を栽培して農民の飢餓を救ったと云う古き伝説の故を以って片栗八幡宮とも称す。尚、深川と云う地名は、徳川家康公が江戸城に入るとようやく区内も脚光を浴びて、まず江戸城から千葉の行徳まで、小名木川運河を開き行徳の塩を輸送する為のものであった。この時代に小名木川一帯を深川と呼ぶようになったと伝えられている。戦前神殿は、入母屋権現造りの総桧・銅板葺きの豪壮華麗なる社殿であったが戦災により焼失するも昭和27年7月戦前と同型・同様の社殿を建設し、昭和27年1月25日附神社本庁統理の承認を得て千田神社の社名を宇迦八幡宮と改称す。昭和55年8月社殿大改修を行い、江東区無形文化財指定の銅板師岡田長造氏の銅板葺屋根作りに依り完成された。 |
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